201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行ったところ、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭芧に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延歴18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参拝の作法

 

 

 

 

平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。 

 

 

 

 

延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、神明大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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