同じようなものではないか、と仰る方が多いだろうが、私の中では競い合いと戦いは別のものである。
まあ、そこが甘いと言われる所以だろうが、私は戦いをすぐ何らかの競い合いのように変えてしまう。
競い合いだと思うから、相手のいいところはいいと認め、相手のいいところを超えるようないいことを自分もしようと努力することになる。
戦いだ、と認識した時は、まず相手のいいところには一切目もくれず、ひたすらに相手の悪いところ、相手の欠点を曝け出すことに血眼になり、時には戦いに勝つために手段を選ばなくなるようなこともありそうだ。
ただ勝ちさえすればいいということになると、自分のいいところを伸ばすよりも相手の悪いところを懸命に穿り出し、相手の足を引っ張ることだけ考えるようになる。
甲乙の争いのはずがいつの間にか丙丁の争いになってしまい勝ちなのは、多分このあたりのことが関係しているのだろう。
与党とも戦う、野党とも戦う宣言をした若い人の気持ちも分からないではないが、与党を超え、野党をも超えることを目標にした方がいいだろう、と昨日書いたのは、戦う、と言い切ってしまうと、いつか相手を呑み込んでしまう、いつか相手を包み込んでしまう、という展望を描くのが難しくなるだろうと思ったからである。
確かに目前の選挙だけを考えれば、与党とも戦う、野党とも戦うということにはなるのだが、志はもっと高いところに置いてもらった方が外目から見て美しいはずだ。
大所高所から見ての感想である。
橋下氏がその発信力を封印してしまった現在、誰がおおさか維新のスポークスマンになるのか、ということを世間の人は注目している。
まあ、参考にされなくても私は一向に困らないが、考えるヒントぐらいにはなるはずである。