出来るとも言えるし、出来ないとも言えるような問題である。
出来ると言いたい人は出来るとする根拠を並べ立てるだろうし、出来ないと言いたい人は出来ないとする根拠を並べ立てる。
議論の前提条件が異なるのだからどこまで行っても交わることがないようなテーマである。
こういう問題を考える時の一つの解決法は、問題を分割、小分けして議論の前提条件を共有化することである。
憲法尊重義務、などと大上段に振りかぶるから、議論が拡散する。
憲法を大事にしなくていいのか、と問い直せばいい。
憲法が嫌いな人は憲法なんかいらない、というかも知れない。
これは理屈の問題ではなく好き嫌いの問題だから、議論はそこで終わり。
色々な議論の中には、こうした類の問題もあるから、よく見極めて議論を進めることだ。
憲法は大事だ、憲法を大切にしましょう、という大まかな合意が成立したところで次に出てくるのが、大事な憲法だが完全無欠な憲法かどうか、ということだ。
細かく上げれば色々瑕が見えてくる。
分かったつもりでいたことも、丁寧に読み解いていくと段々分からなくなることもある。
これ、ちょっと変じゃない?と声を上げたくなるときもあるだろう。
そういう瑕が見え始めたときに、それではそういう瑕がある憲法はどの程度に大事な憲法なのか、ということになる。
無謬の憲法、などという思い込みがあれば憲法には一切手を触れてはならない、などということになるだろうが、憲法の無謬性を信じない人は、憲法は大事だが変えてはいけないというものではない、というぐらいの感覚になるはずだ。
憲法の尊重義務が憲法の不可侵性を強調する概念として使われるのであれば、普通の人は反対するだろう。
他方、憲法尊重義務が憲法に書かれていても憲法の改正権限を制約するものではない、という認識が共有されれば、この問題はあまり深刻な対決を招かないで済むかも知れない。
国民には憲法尊重義務があることを憲法に明記すべきか、という問題である。
憲法尊重義務は、立憲主義の立場から国権の行使に当たる公務員に対して課される義務だということを強調する人たちは、憲法尊重の義務を国民にまで拡げることには最後まで反対するだろう。
立憲主義という観念が希薄になって、憲法は要するに国の基本ルールを定める最高法規だからみんなで護りましょう、という立場に立つと、憲法を尊重するのは当たり前ではないか、ということになる。
どちらの立場からの立論も可能である。
私は、現時点でわざわざ一般の国民に憲法尊重義務を及ぼそうという真意がどこにあるかをよく見極めて答えを出せばいいと思っている。
まあ、異論があるのに無理をすることはない。
憲法を大事にしましょうという精神的なことを強調したいだけだったら、何も今、憲法を改正して、如何にも立憲主義を弱めてしまうような外観を作りだすようなことはしない方がいい。
これが私の意見である。