消えた大金ー密室での現金授受の立証の問題性 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

私が知っているのは、それこそ数千万円の紙袋の事件である。

この事件で贈賄者側は紙袋を持参して渡したと言い、収賄者と目された人物は貰ったことはないという。
収賄者と目される人物の側の人間は、一様に紙袋の受領を否定する。
贈賄者側はそれでも紙袋を渡したと供述する。
贈賄者側と収賄者と目される人物の間で、真っ向から対立するような反対の供述がなされているから、第三者がこれを裁くのは難しい。
真実は、どこにあるか。

どちらも本当のことを言っているように思えるから、判定に困る。
それでも捜査当局も裁判所は、どちらが本当のことを言っているかを決めなければならない。

収賄者と目されている側が金銭の受領を認めてくれれば金銭の授受があったと認定していいのだが、普通は認めない。
絶対といっていいほど認めない。
しかし、認めないからといってそのことだけで収賄者と目されている側に不利に解することは出来ない。

こういう場合は、贈賄者側の供述を徹底的に精査することになる。

贈賄者側の供述に不自然なところはないか、客観的な証拠と矛盾する点はないか、供述そのものが変遷していないか、相手をことさらに貶めようとしている形跡がないか等を徹底的に検証するものである。
贈賄者側に不審な挙動があれば、贈賄者側の供述はないも同然の扱いを受ける。
精査に精査を重ねて贈賄者側の供述に揺るぎがないことが確認されたら、贈賄者側の供述に信用性があると判断する。

しかし、実はそれだけの検証作業を経ても、贈賄者側の供述に嘘がないとは言えない。

嘘か本当かは、本人だけしか分からないのだ。
贈賄者側が何らかの理由で嘘を吐いている可能性を完全に否定することは出来ないのだ。
疑えばきりがない、というのが正直なところである。

徹底的に収賄者と目される側が争っているような場合は、捜査当局も慎重になり、証拠が不十分、不完全だということになれば起訴を見送ることになる。

したがって、こういう真実の解明や立証に困難が予想されるような、いわば事実関係に霞がかかっているような事件は、まずは立件されないようにする、立件されても起訴されないようにする、仮に起訴されるとしても略式裁判で罰金で完結させる、というのが弁護側の最大の防御になる。
通常は、この三段階の防御線は相当有効に働く。

しかし、この三段の防御線を突破されて正式裁判に持ち込まれたら、被告側は苦しくなる。
別に裁判所と検察官が癒着しているから、とか、狎れあっているからというのではない。

どういう場合に起訴がなされるのかが裁判所には分かっているからである。
慎重のうえにも慎重を期して、何度も検証を重ねての起訴だということになると、裁判所の心証がどうしても被告側に不利に形成されることになる。
公判廷で贈賄側の証人が贈賄の事実を証言すると決定的である。

私の知っている事件では、裁判所は贈賄側の供述を一貫して採用した。
被告弁護側がそれこそ最高の弁護団を結成して死力を尽くして徹底的に争ったが、結局最後まで裁判所の認定を変えることが出来なかった。

陸山会政治資金収支報告書不実記載事件での水谷建設からの1億円の闇献金の授受の有無は、政治資金規正法違反事件の構成要件とは関係のない間接事実だった。

これを事実上の争点にしてしまったのが、被告弁護側の取り返しのつかない失敗だったろう。
公判廷での証言には決定的な証拠価値が認められる。
しかも一人の証言ではなく、水谷建設側の複数の証人が公判廷で証言したというのだから、これはどんなに言い繕っても引っくり返すことは出来ないと言ってよい。

裁判所は裁判に顕われた証拠からしか事実の認定が出来ないということをよくよく知っておくべきである。

ひょっとすると真相は別のところにあるかも知れない、ということを私は認めている。
裁判所の認定する事実と真実は、たしかに違っていることがある。

しかし、それでも、既に報道等で明らかになっている事実関係や公判廷での証人の証言、さらには裁判所が証拠として採用した証拠関係から、裁判所が今後どういう判断を下すかはある程度読み解くことが出来る。

裁判を、裁判の始まる前から最高裁の判決が確定するまで、すべてのことを見聞した者でなければ到底分からないことではあるが。
参考にするもよし、されぬも良し、といつもは言うところだが、今回の記事は参考にされた方がいいことは間違いない。