脳死は人の死派系の人の声が大き過ぎる | 弁護士早川忠孝の一念発起・日々新たなり  通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

どうやら今のままでは、この通常国会での臓器移植法改正の実現は難しそうです。


折角のD案もA案提案者からの曲解に基づいた激しい口(攻)撃で多数派を形成できそうに無い。

そんな危惧が今朝の産経新聞に紹介されておりました。


法律で、脳死は人の死と決めてくれ。

脳死状態にある患者の家族に脳死状態にある身内の死を決めさせるのは、残酷だ。

脳死が人の死であると法律に書いてあれば、脳死状態の者はもう法律的には死んでおり元には戻れないのだから、患者の家族が臓器をどなたかの役に立てるために臓器提供の同意をすることは容易だ。

D案では、臓器移植は増えない。

助かるべき命が助けられない。

D案は、A案の成立を阻害する案だ。

何が何でもA案を成立させなければならない。

臓器移植を待ち望んでいる患者さんが今日も臓器移植を受けられないで亡くなっている。

可哀想じゃないか。

もう海外での臓器移植は受けられなくなる!


脳死を人の死と認められない人は、はっきりそういう意思表示を書面にして残しておけばいい。

これも自己決定の一つの形だ。

脳死を人の死と認められない家族の方々は臓器提供を承諾しなければいい。


脳死は人の死派の皆さんの割り切り方は、実に見事です。


いくら心臓が動き、身体が暖かろうが、脳死と判定されれば絶対に元には戻らない。

植物人間と脳死とは、別の概念だ。

脳死は不可逆的な死の状態を言うのだ。


小児学会の方々を除いて医療関係者にはこういう割り切り方をされる方が多いようです。


法律で脳死を人の死と決めてくれれば、医療の現場でも悩まなくて済む。

脳死が人の死、と決まれば、たとえ心臓が動いていてもそれ以上の治療は継続しなくて済む。

勿論法律上の死だからご遺体にメスを入れても何の刑事責任も問われない。

家族のどなたかがクレームを付けてきても、法律上お亡くなりになっているのだから、ご遺族の承諾があればそれで足りる。

第三者のクレームはこれで無視しても差し支えなくなる。


脳死は人の死。

脳死は人の死。

国民の常識にしなければならない。

だって、外国では皆そうしているよ。


大体こんなところでしょうか。


河野太郎氏があちこちでこう吼え、患者家族団体の皆さんもこれに同調する。

この論調で行くと、D案の提案者は如何にもA案の前に立ちはだかる悪者のように映り、口(攻)撃・悪宣伝の対象になる。

困ったことです。

これがプロパガンダ、ということです。


仔細に検討していくと、そんなに簡単に結論を出せるような問題ではない。

一歩一歩着実に前進したほうがいいのに。

本来味方になる人たちを反対陣営に追い込んでしまうような物言いをしている。

困ったことだ。


私は、そう思っております。


大きな誤解は、家族が脳死状態にある患者の死の決定を迫られる、それは酷ではないか、という点にあります。

臓器提供に躊躇いのある家族の方々は、臓器移植に同意されなければいいのです。

臓器移植の数をどうしても増やしたい、と言われても、嫌なものは嫌。

そう答えればいいのです。


「これ以上治療を尽くして、元に戻る見込みはありません。

いわゆる医学的に不可逆的な脳死の状態です。」

そう主治医の先生から優しく言われて、ご家族が患者の死を受け容れることができる状態になってはじめて臓器提供の話になるはずです。


「貴方のご主人(お子さん)は脳死です。

臓器提供に同意されますか、同意されませんか。」


そんな紋切り型の会話になるはずがありません。

脳死状態になった患者のご家族の方々が死を受け容れる心境になったときに初めて脳死判定、臓器提供の話になるのだと私は思います。


確かに医師はこういった場合でも、自分が脳死を判定する、という重い責任はやはり回避したくなるのでしょう。

「人の死は法律で決まっている。

自分は脳死だということを医学的に確認しただけで、人の死を自分が決めたわけではない。」

そう弁解したいのだと思います。


しかし、私は、脳死は人の死、とすることには、どうしても賛成できません。

臓器提供を快く承諾する人の善意は無にしたくない。

臓器移植を待ち望んでいる患者家族の皆さんの叫びにも出来るだけ応えていきたい。

だから、あえてD案を支持する旨表明したのですが。