臨時国会が終了し、思いかけず空白の時間が出来る。
埼玉県知事選挙が告示されているので、毎日の日課としてきた駅頭での朝の挨拶が憚られる。
単なる、おはようございます、の挨拶だが、有権者には選挙運動のように受け取られるだろうし、また、国会議員の国会報告としては物足りない。
ということで、8月26日の投票日まで駅頭をお休みすることにした。
国会議員に当選して以来、初めてのことである。
私は、もともと仕事人間で、仕事は大好きで一生懸命やるが、遊びの類は苦手である。
カラオケなどはどうやってパスするか、いまでも困っている。
そんな私にとって、朝の駅頭は、自分を作り変える大きな手段であった。
人前に顔を晒すということには、ある種の羞恥感が伴う。
駅頭を続けるためには、相当の克己心が必要である。
だから、私は、若い政治家の修行の場として駅頭ほど相応しいところはない、と思っている。
その駅頭が、思いもかけず中断された。
さて、もう一度駅頭に立つ力が自分に蘇ってくるだろうか。
この思いがけない空白で自分が再び試されている、と感じている。
早川忠孝の現在の標語は、「早川忠孝、駅にも立つが、役にも立つ。」だ。
「駅にも立たず、役にも立たない」などと言われないよう、精進していかなければならない。
こういう時こそ、しっかり勉強しておかなければならない。
今日は、半藤一利の昭和史後編を読了し、さらに、久しぶりに新松下村塾(松下政経塾ではない)に出席し、「国敗れて、マッカーサー」の著者である西鋭夫スタンフォード大学フーバー研究所教授の講演を聴いてきた。