【扇風機の歌】


夏の太陽がジリジリ、その下を黒いランドセルの小学生が、
白いコンクリートの坂を登っていく。
一歩、二歩、三歩、影は足元で丸っこく黒く、そこに汗がぽつぽつ落ちる。
どこかであぶらぜみが鳴いていた。とにかくオレは早く家に着きたいのだ。


長崎県諫早市福田町の山のてっぺんに並ぶ県営住宅の家。
そこを見上げると、白い雲が浮かぶあざやかすぎる青空に、
裏のお墓の木が緑いっぱいに茂っていた。
「なんで坂の一番上に家があるの。」
オレは目の前の坂を恨みながら、ひたすら登って行った。


「ただいま!!」
庭の方から開けっ放しの居間に突っ込んだ。
ランドセルを背負いで投げ込みながら倒れ込み、
靴を脱がずにからだを半分家に入れたまま手をのばし、
そこに置いてある扇風機の首根っこをつかんで引き寄せ、
もう片一方の手でチャンネルを強風にまわし、顔の真正面に風を受けた。


「ひえー!!気持ちよか~!!」
もし扇風機という物がこの世になかったらオレは死んじゃうよ。
その時、心の底からそう思った事を憶えている。


1970年初頭、オレの知り合いの家でクーラーがあった家を
オレは知らない。病院、警察署、学校、映画館にもなかった。
車やバスや列車にも当然のようになかった。
そこにクーラーがつくというという発想さえなかったし、想像もしなかった。
しかし唯一デパートにはあったんだな。だからいつも行きたかった。
何にしろ、その頃の夏の主役は、断然、扇風機だった。


扇風機のプロペラがオレの顔の前で、ブ~ンと音をたててまわり続ける。
やがて顔いっぱいにかいていた汗はだんだん引っ込んできた。
左まぶたの左端に汗が大きく一滴残って、そこだけぼやけている。
それを扇風機の風で吹き飛ばそうと近づけたが、なかなかガンコで
吹き飛ばない。小指でぬぐった。
庭にまだ投げ出したままだった足は、ようやく右と左で蹴たぐりあうように、
靴を脱ぎ落とし、部屋の中で体育座りになり扇風機を抱え込んだ。
扇風機に口をつける。そしてプロペラに向かって大きく声を出した。
「ブラリラ、ブラリー、ブララーブララーラー」「ブラブ、ブラブ、
ブララ、ブララー」「ブブブブブブ、ブブブブラリラー」
音が変わるのが面白い。そして歌まで歌い出しちゃった。
「ブララ~カモメの水兵は川の中~行けジャイアントロボ~ブブブ」
なんだかめちゃくちゃになるんだよな、ああいう時の歌って。


「ああ、暑かった。やっぱり扇風機だよな。」
流し台の蛇口で水を飲もうと思って、ひとまず台所に立った。


今でもたまに扇風機に向かって声を出してみる時があるけど、
あの時の感じがでないんだ。なんでだろう?あの時はプロペラが
思いっきりオレの声をはねかえして、扇風機が歌ってくれていたような
気がしたのだが。たぶん扇風機も違うのだろうけど、気合いが足りないのだ。
「暑いぜバカヤロウー!!扇風機よ、君だけが頼りだ!!」という気合いがね。
あの頃は確かに、暑い時は扇風機にすがって抱きしめるようにあたっていた。
今はそこまでの事はないだろうな、どこに行ってもクーラーがあるからさ。


クーラーのスイッチをいれれば、窓一枚をはさんで天国と地獄だ。
しかし今、このクーラーが地球を壊している。人の体も壊すし、風情も壊す。
かと言ってクーラーの中にいる自分にしあわせを感じながら、そこを動こうと
しない自分もいる。
そんな事を考えていたら、扇風機命だったかつての夏の頃を思い出した。