「金閣寺」と三島由紀夫の旅 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 黒ずんだ金閣寺と「脳内金閣寺」

 最も有名な日本の建築というと金閣寺ではないだろうか。少なくとも私は子どもの頃から知っていた。おそらく昭和50年代のアニメ「一休さん」でいつも出てきたからかもしれない。そのころ切手収集が流行っており、叔父から受け継いだ戦前(1939年)の普通切手の図案にも金閣寺はあった。とはいえ、カラー印刷ではなかったため、まばゆいほどの光を放っていたわけではない上に、使用済み切手だったので半分くらい消印でかくれていた。 

 小学六年生の社会科で歴史を学び、金閣寺は足利義満が創建したことを知った。すると教科書に出てきた池に映る金色の金閣寺が見たくなってきた。その「夢」が叶ったのは中一のゴールデンウィークだった。父の運転で山陰は出雲から京阪神に行ったのだが、中でも期待していたのがあの金閣寺だった。しかしその期待は見事に裏切られた。金色に光っているはずの金閣寺が、所々金箔ははがれ、黒ずんでいたからだ。がっかりである。

 後に三島由紀夫の「金閣寺」を読んで、感情移入してしまう一節があった。主人公の溝口は吃音の青年だが、彼は京都府とは言え、「裏日本」舞鶴東北のうらさびしい岬に面した寺の息子だった。住職である父親から「金閣ほど美しいものは地上にない。」と言われて過ごしてきたため、「金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。」というほど美のシンボルとしての金閣に憧れてきた。

 願いが叶って本物の金閣を見る機会がやってきたが、彼が見たのは戦前の、おそらくは私が普通切手の図案の中で見たようなくすんだ金閣だった。憧れの金閣との初対面の感想は、「何の感動も起こらなかった。それは古い黒ずんだ小っぽけな三階建にすぎなかった。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた。」というものだった。「美=美しくない」と主人公の口を借りて述べるのは三島お得意の「確信犯的矛盾」である。

 一方、十二歳で初めて所々黒ずんだ現実の金閣を見た私は、直感的にそれを受け入れるのを拒否していたのだろう。修正をかけられるデジカメなどない時代、心の中で黒ずんだところに金箔を重ね張りして、「脳内金閣寺」を守るしかなかった。とにかく心の中の金閣寺は黄金に輝いてなければならなかったのだ。日本海側の寒村から来た私は、おそらく溝口と同じメンタリティだったのかもしれない。

 

「現実の金閣」と「心象の金閣」

 翌1985年、修学旅行での行先も京阪神で、そのコースの中にも金閣寺はあった。私は級友たちの前で一度しか訪れたことがないのだが一丁前に「京都通」を気取って「金閣寺なんか行っても真っ黒で、見る価値ない!」と息巻いていた。昭和の山村の少年にとって、すでに金閣寺をこの目で見たことがあること自体が自慢だったのだ。はたして、級友たちと訪れた金閣寺は黒ずんで輝いておらず、私は鏡湖池に揺らめきながら映る金閣のほうをあえて見ていた。黒ずんだ金閣などニセモノ以外の何者ではなかったからだ。

 それから五年ほどして、大学生になった私は、京都まで京阪電鉄で20分ほどの大阪府枚方市に住んでいたが、そのころはすでに金閣寺に対して興味を失っていた。どうせ行っても黒ずんでいると思っていたからだ。さらにいうならば、虚飾がましい金箔よりも、銀閣寺など「わびさび」の世界のほうに惹かれていたという美意識の変化もあった。

四回生の卒業間近の冬の雪が降った日、後輩が金閣寺に行った。事前にまたもやしたり顔で「行ってもがっかりするで。」と「先輩風」を吹かせていた。翌日その写真を見せてくれて驚いた。そこには真っ白な雪化粧をした金閣寺が黄金色に光っていたからだ。素直に美しさを認めた。大学四年間を通して、私は知らなかった。修学旅行で訪問した翌年、「昭和の大改修」により、日本最高の業を持つ金沢の職人たちにより、金箔がそれまでの五倍の厚さに貼りなおされ、再び金閣寺は輝きを取り戻していたことを。

結局私はそのすぐあと、大学を卒業し、大陸に渡った。金閣寺のことは忘れていた。

一方の溝口は金閣との「初対面」のあと、真剣に「美」とは何かを追求しだした。そして「私が人生で最初にぶつかった難問は、美というものだったと言っても過言ではない。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。」と独白している。

つまり私の場合は現実の金閣に脳内で金箔をはってごまかしているうちに興味関心は薄れ、「美」とは豪華絢爛なものではなくあらゆるものをそぎ落とした「枯淡の美」に変わっていった。それに対し、溝口は「現実の金閣」のみすぼらしさをごまかさず、自分の知らないところにある「心象の金閣」の美を信じ続けたのだ。

 

 

金閣の炎上

昭和19年、米軍が日本中の大都市を焼き尽くすと、京都の町も攻撃対象にされていることに気づいた溝口はこう考えた。「私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。」これは自暴自棄ではない。美に殉ずることに対する自己陶酔に近いのかもしれない。そしてこれはおそらく古より連綿とつながる「滅びの美学」となっていく。そして彼は願う。「私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。」それは決して中学時代の私が脳内で金箔をはったような「せこい」ことを意味するのではなかった。

結局金閣寺は空襲に遭わないまま、敗戦を迎えると、価値観が一変した。これまで絶対的に美しいとされていたものが百八十度転換したのだ。文学者でいうなら「堕落論」の坂口安吾のように、戦前戦中の精神主義的価値観をぬぐい捨て、健気に現実を生きていく人が続出した。金閣寺の老師も拝観券の料金をあげたりして戦後をうまく乗り切り、たくましく戦後を生き抜いた。

しかし裏日本の寒村からやってきた吃音の青年、溝口にはそれができなかった。彼にとって永遠不滅の「美」とは金閣そのものだった。それは戦前戦後と価値観が目まぐるしく変わる中も普遍でなければならなかった。そこで溝口は「金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。」という考えに至った。これもまた主人公の口を通して述べた太宰お得意の「確信犯的矛盾」である。

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