名古屋城天守と日本人 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

 

名古屋城と日本人

日本では「城」=天守を指しているようだ。戦時には敵の侵攻をいち早く察知するため、平和時には権威の象徴として機能した天守こそ、日本人にとっての「城」なのであり、これがなければ「城」とはみなされない。それは全国12棟残されているが、その他の天守のほとんどが昭和になって鉄筋コンクリートで造られたものだ。江戸時代以前の天守が12棟しか現存しない理由は大きく分けて三つある。一つは江戸城や二条城等、江戸時代に落雷や火災にあったこと。二つ目は小田原城等、明治維新時に封建時代の遺物と見なされて約40棟が壊されたこと。過去の遺物を破壊するのは、日本版「文化大革命」といえよう。そしてもう一つが昭和20年の各地の空襲において、米軍の標的になったこと。あの夏の3カ月で、米軍は7棟の天守と首里城正殿を焼いたのだ。

城マニアとして長い間「鉄筋コンクリート天守は邪道」と決めつけ、価値がないと思っていた私だが、その考えが変わったのは名古屋城を訪れてからだ。鉄筋コンクリートの名古屋城天守内では「尾張名古屋は城でもつ」と地元民に愛されてきた名古屋城天守が空襲に遭って燃える写真と破れた襖が展示されていた。多くの城を見てきたが、真っ向から戦争の愚かさと平和の大切さを主張する城はここ位なものだろう。

昭和30年代になるとようやく戦災から復興し、高度経済成長の道を歩むようになると、戦災で失った名古屋城天守は再建された。その他にも雨後の筍のように日本中に天守が建ち始めたが、鉄筋コンクリート造りだった。それは空襲でも決して燃えないため、戦災に遭った人々の復興の象徴となったのだ。私は表面だけコンクリートで再建するというのは文化財としての価値を無視していると思ってきたが、自分こそ復興期に我が町の天守の復興を被災した自分自身の生活の立て直しに重ね合わせた人々の心を無視してきたことに気づいた。

それにしても天守の存在理由は時代の変遷につれて変わってきたのが興味深い。織田氏の軍事拠点であった戦国時代。御三家尾張徳川家の権力の象徴であった江戸時代。捨てさるべき封建時代の遺物とされた明治初期、空襲の目印だった昭和20年夏、そして復興のシンボルだった昭和30年代。天守が持たされてきた数奇な運命は、当時の時代の流れを如実に表している。

その後、経済的、文化的にも成熟し、「本物志向」が標準の平成になってからは、文化財としての価値が重んじられ、往時と同じ材質で、しかもオリジナルの設計図や写真がなければ文化庁も再建を許可しなくなった。それと同時に天守だけでなく領主の邸宅であった御殿などの建設も始まった。名古屋城でも2010年代に本丸御殿を再建中であり、白木の壁にまばゆいばかりの金色に輝く狩野派の障壁画は、かつての栄華を偲ばせるに十分だ。

さらに2017年には名古屋市長が天守を木造で再建することを決定した。コンクリート天守の再木造化は、本邦初のこと。500億円もの事業費をかけてまで行うこの再建には、市民の熱い思いが伝わってくる。人は経済的に苦しくとも、アイデンティティのためには背に腹をかえられないことがあるのだろう。2022年の完成時にはまたぜひとも訪れたい。