近代人織田信長と安土城 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

近代人織田信長と安土城

日本で近代とは19世紀にはじまるとされるが、それ以前にも神仏よりも人間を世界の中心におき、神秘性よりも合理性を重んじる「近代的」な人物はいた。織田信長がその代表である。非合理的に思える中世的なしきたりを子供のころから無視してきた信長の近代性は、まずその戦い方に現れる。

わずか十分の一の軍勢で今川義元を桶狭間の戦いで破った際、カギとなったのは敵の動向の察知である。中世の武士は「やあやあ、我こそは!」で始まる中世的な一対一の合戦には価値を置かなかった彼は、義元の首をとった武士よりもその情報を与えた者にほうびを多く与えたと言われている。近代的な情報戦に戦の仕方を変えたのだ。

また、中世の騎馬戦から大量生産の鉄砲で倒すというのも合理的だ。馬に乗るのは何年もの訓練がいる職人技だが、鉄砲で一気に相手を倒すのはベルトコンベアで大量生産するのにも似て、非熟練兵士でも勝てるからだ。さらに、そのころの鉄砲は、一発撃つと次の発砲まで三十秒はかかるといわれ、騎馬隊のように素早く動く相手に対しては不利だと考えられたが、三段構えにして発射のペースを速めることで敵を破ったのだ。

宗教面でいうなら、神仏を恐れないのも近代的だ。平安時代以来日本仏教の聖地であった比叡山を焼き討ちし、僧侶を皆殺しにするなど、それまでの佛罰を恐れていた中世人には考えられないことだが、信長にとっては僧侶もただの兵士と同じ扱いなのだ。

そして彼に関する遺構で最も近代性を感じさせるのは、琵琶湖畔に建てた安土城である。古来の高層建築は出雲大社本殿や五重塔など、神仏に関するものであり、人間が登るものではなかった。しかし信長は安土城天守を国内統治の拠点とし、東京スカイツリーや六本木ヒルズ等を建てるかの間隔で、「人間のための」高層建築を建てた最初の人物だ。本能寺の変の後に何者かによって焼かれたとはいえ、いまなお立派な石塁が山を覆っている。鉄砲の時代になると、それまでの土塁では弾が貫通する恐れがあるため、山を石塁で覆って城塞とした最初の人物からして彼である。ふもとから中腹までまっすぐの石畳を登っていくと、まるで中世の欧州の道を歩いているかのようでもある。おそらく彼の好んだ宣教師ら南蛮人から欧州の街並みのことを聞いたからかもしれない。南蛮人の影響と言えば、復元想定図を見ると一階から三階までが吹き抜けになっていたようだが、これも当時のカトリック教会の作りの影響を受けているとも考えられる。

安土城跡から田園地帯を進むと、「安土城天主信長の館」が現れる。市民ホールのような建物の中にはかつての安土城「天主(天守、ではなく)」の上半分が復元されている。天守とは下から望楼を眺めるものだけではなく、間近で見られるものにしたという点で、この施設は評価できる。金銀に極彩色が彩るきらびやかな空間には、儒教、道教、佛教の壁画が描かれている。多宗教を受け入れて一つにする多神教的日本人の典型とも思えるが、プラグマティックに宗教を受け止め、利用できる点は利用していたともとれる。このように中世にあった様々なしがらみを規制緩和した近代人信長だったが、安土城本丸に清涼殿を建て、天皇を招こうとした。天皇だけは無視できなかったという点が興味深い。