10  脈動
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  当時の大阪支部三十四地区のなかで、三人もの女性地区部長がいたことは、男性陣の人材難を物語っていた。
 そのなかの一人、大矢ひでは、大阪の近郊に住む歯科医の妻であった。夫は、仕事熱心で生真面目、寡黙な好人物で、家庭の波風もなく、平穏な日常を、戦中、戦後を通じて送っていた。
 このような結婚生活のなかにあって、一子・良彦の成長に注意が集中し、いつか彼女の生きがいのシンボルとして、未来への期待と夢とが育まれたのも無理はない。
 彼女の愛情のすべてを一身に受けた息子は、ある時は迷惑にも感じたろう。しかし良彦は、幸いにして善良な、学業成績のよい子であったが、いささか病弱であった。この平凡な母の頭を時折かすめる唯一の不安は、この虚弱体質にあった。
 一九五二年(昭和二十七年)四月、良彦は、優秀な成績で大阪大学歯学部に入学した。大矢ひでにとって、これほどの喜びはない。
 しかし同時に、不慮の災厄を怖れる不安は、平穏であればあるほど、どうしようもなかった。彼女も、周囲の人びとの人生の浮沈を、戦中、戦後の激動の世相のなかで、つぶさに眺めてきたからである。
 〝この世に、幸福を保証するものは何もない〟と思い至った時、不安は時に戦慄に変わった。
 このころ、この歯科医院に出入りする一人の歯科技工士がいた。彼は、入会したばかりの創価学会員であった。
 彼は、座談会で耳にした体験談などを、不思議な信心があると言って、彼自らの驚愕を、しばしば語って尽きなかった。彼は、歯科医一家を座談会に誘ったが、社交性の薄い歯科医は腰が重く、ひでと良彦だけが、二度ほど座談会に出席した。
 人びとの、こもごも語るところは、彼ら二人の人生では、これまでに経験したこともないことばかりである。
 良彦は、好奇心に燃え、母親は「絶対の幸福」を、この信心によってのみ獲得することができるという、耳よりな話に身を乗り出した。しかし、話す人たちは、誰もが、自分たちよりも、まだ不幸で、貧しい姿に見受けられ、入会には躊躇を余儀なくされていた。
 大阪の草創期には、歯科医や、技工士や、歯科材料商など、歯科関係者の入会が相次いでいたが、これは、春木征一郎と共に草創期の双璧であった、堺の歯科医・浅田宏の活発な活動によるものであった。
 浅田は、同僚の歯科医や、出入りする歯科材料商から折伏を始め、その系列が次々と多くの新会員を生んでいった。その折伏の波は、南部の堺から北へ大阪を貫き、歯科医の大矢一家のところまで、このころになって届いたのである。
 ひでと良彦が、三度目の座談会に誘われたのは、五三年(昭和二十八年)八月十二日のことであった。大阪方面の二回目の夏季指導の真っ最中で、本部派遣の幹部が大挙して来阪し、尊い汗を流していた時である。この日の座談会には、派遣員の二人の東京の幹部が出席して、いつにない活気にあふれていた。一人は、壮年の建築士で、もう一人は、小学校の教員という、若い未婚の女性であった。
 二人は、仏教各派の誤りを正した日蓮大聖人の四箇の格言から話を進めた。
 ひでは鋭く耳を澄ました。宗教が、幸・不幸を決定づけるという理路整然たる仏法哲理は、彼女のこれまでの人生で、夢にも考え及ばなかったことである。
 彼女は、わが家の実態を思い起こした。
 〝生真面目一方で、何事にも積極性というものを全く失っている夫、出来はよいが虚弱体質の一子・良彦、わが家の幸福の基盤は、いつ崩れるかわからない──〟
 常日ごろの、彼女の漠然とした不安は、宗教に起因しているかもしれないと気づいた。
 彼女は、目の覚める思いで、建築士と教員の、はつらつたる熱情を込めた話に聞き入った。
 良彦は、確たる仏法哲理に、反論の余地なく、素直に入会を希望してしまった。
 「あかん、あかん」
 ひでは、とっさに、良彦の腕をつついて、ささやいた。
 「そんな簡単に、信心する言うたらあかんで……父さんにも相談せなあかんで」
 「ええやないか、ぼくだけやってみるさかい……。よかったら、母さんもやったらええ」
 良彦は、既に一人の成人であった。
 青年の直観は鋭く、思いのほか、意志は固かった。母から独立した青年の、決然たる思考は、逆に母に影響を与えずにはおかない。彼女も入会に同意した。
 大矢ひでは、活動を開始した。
 まず、日ごろから交際している、いわゆる「街の名士」に、次々と語りかけた。
 ところが、世情にうとかったひでは、思わぬ反撃に出合った。名士たちは、巷に流布していた創価学会の評判を、彼女よりも知っていた。それも悪罵である。
 「神さんも、仏さんも、焼くいうやないか、あんた、ようそんな信心に入りはったな」
 彼女が、仏法について語って歩いても、一人の入会者もなかった。幸福への道に逆らう反対者の心情が、彼女には不可解であった。
 要するに彼らの反対は、わずかばかりの財産を頼んでの傲慢さによることがわかった。彼女は、現に苦しみ悩んでいる人たち、社会の底辺で、経済苦や病苦に沈んで生活にあえいでいる人たちに、焦点を変えた。視点を変えると、近隣の人たちのなかにも、知人のなかにも、不運に虐げられている人は多かった。
 入会以来、数カ月過ぎた時、彼女は、十一世帯の折伏をしていた。人びとの蘇生の実態を見るにつけ、彼女は、信心活動の歓喜を知った。歓喜は、一歯科医の平凡な妻に、世のため、人のために、尽くし得る生きがいを教えた。
 一家の安泰にのみ心を奪われていた女性の前に、いつか尊い、唯一最高の救世の道が開かれたのである。
 一年たたぬ五四年(昭和二十九年)四月、彼女は四十五世帯の班長となった。
 この年の五月十五日、戸田城聖は、山本伸一を伴って来阪していた。春木支部長の呼び出しで、ひでは良彦と共に、戸田が滞在している大阪・西成区の花園旅館を訪ね、初めて彼に面会した。
 戸田の存在は、人格といい、スケールといい、彼女の、これまで会った男性からは、想像もできないほど図抜けていた。彼女は、この世に人を信頼するということがあるなら、それは、まさしくこのような存在をいうのであろうと、深く感動した。ひでは、日ごろ、心にかかる一点、一子・良彦のことを思わず話しだした。
 「わかった、心配ありません。息子さんは、山本伸一に紹介してあげるから、安心しなさい」
 戸田は、一言のもとに引き受けたが、大矢ひでは、山本伸一が何者かを知らなかった。
 彼女は廊下に出て、そこにいた青年をつかまえ、事の次第を話した。
 「戸田先生が……」と慌てて語る彼女の声が聞こえたのであろう。別室から一人の精悍な青年が、飛び出してきた。
 「戸田先生が、どうかされましたか。なんですか」
 青年の真剣な表情には、師を守る強い気迫があふれている。その真剣さは、清冽な感動をもって彼女を圧倒した。一瞬にして、彼女は、戸田に仕える姿勢を知ったのである。青年は、山本伸一であった。
 大矢ひでは、戸田を知り、良彦も山本伸一を知り、幸運にも、この親子は、共々に、薫陶を受ける身となった。
 彼女が、北摂地区部長の任命を受けたのは、五五年(昭和三十年)十一月のことである。