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開目抄上
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同.
されば、日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐれたることはおそれをもいだきぬべし。定めて天の御計らいにもあずかるべしと存ずれども、一分のしるしもなし。いよいよ重科に沈む。還ってこのことを計りみれば、我が身の法華経の行者にあらざるか、また諸天善神等のこの国をすてて去り給えるか、かたがた疑わし。 しかるに、法華経の第五の巻の勧持品の二十行の偈は、日蓮だにもこの国に生まれずば、ほとうど世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。 経に云わく「諸の無智の人の、悪口・罵詈等し、刀杖・瓦石を加うるもの有らん」等云々。今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か、法華経につけて諸人に悪口・罵詈せられ、刀杖等を加えらるる者ある。日蓮なくば、この一偈の未来記は妄語となりぬ。「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲なり」。また云わく「白衣のために法を説いて、世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごとくならん」。これらの経文は、今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば、世尊はまた大妄語の人。「常に大衆の中に在って乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向かって」等。今の世の僧等、日蓮を讒奏して流罪せずば、この経文むなし。また云わく「数々見擯出(しばしば擯出せられん)」等云々。日蓮、法華経のゆえに度々ながされずば、「数々」の二字いかんがせん。この二字は天台・伝教もいまだよみ給わず。いわんや余人をや。末法の始めのしるし「恐怖悪世の中」の金言のあうゆえに、ただ日蓮一人これをよめり。 例せば、世尊、付法蔵経に記して云わく「我が滅後一百年に阿育大王という王あるべし」。摩耶経に云わく「我が滅後六百年に竜樹菩薩という人、南天竺に出ずべし」。大悲経に云わく「我が滅後六十年に末田地という者、地を竜宮につくべし」。これら、皆、仏記のごとくなりき。しからずば、誰か仏教を信受すべき。しかるに、仏、「恐怖悪世」「しかる後の未来世」「末世の法滅せん時」「後の五百歳」なんど、正・妙の二本に正しく時を定めたもう。当世、法華の三類の強敵なくば、誰か仏説を信受せん。日蓮なくば、誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。南三北七・七大寺等、なお像法の法華経の敵の内、いかにいわんや、当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや。 経文に我が身符合せり。御勘気をかぼれば、いよいよ悦びをますべし。例せば、小乗の菩薩の未断惑なるが、願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かたのごとくその業を造って、願って地獄に堕ちて苦しむに、同じ苦に代われるを悦びとするがごとし。これもまたかくのごとし。 ただし、世間の疑いといい、自心の疑いと申し、いかでか天扶け給わざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者には、さるになりとも法華経の行者とごうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、その義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。この疑いはこの書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑いを強くして答えをかまうべし。
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同.
されば、日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐれたることはおそれをもいだきぬべし。定めて天の御計らいにもあずかるべしと存ずれども、一分のしるしもなし。いよいよ重科に沈む。還ってこのことを計りみれば、我が身の法華経の行者にあらざるか、また諸天善神等のこの国をすてて去り給えるか、かたがた疑わし。
しかるに、法華経の第五の巻の勧持品の二十行の偈は、日蓮だにもこの国に生まれずば、ほとうど世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。
経に云わく「諸の無智の人の、悪口・罵詈等し、刀杖・瓦石を加うるもの有らん」等云々。今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か、法華経につけて諸人に悪口・罵詈せられ、刀杖等を加えらるる者ある。日蓮なくば、この一偈の未来記は妄語となりぬ。「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲なり」。また云わく「白衣のために法を説いて、世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごとくならん」。これらの経文は、今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば、世尊はまた大妄語の人。「常に大衆の中に在って乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向かって」等。今の世の僧等、日蓮を讒奏して流罪せずば、この経文むなし。また云わく「数々見擯出(しばしば擯出せられん)」等云々。日蓮、法華経のゆえに度々ながされずば、「数々」の二字いかんがせん。この二字は天台・伝教もいまだよみ給わず。いわんや余人をや。末法の始めのしるし「恐怖悪世の中」の金言のあうゆえに、ただ日蓮一人これをよめり。
例せば、世尊、付法蔵経に記して云わく「我が滅後一百年に阿育大王という王あるべし」。摩耶経に云わく「我が滅後六百年に竜樹菩薩という人、南天竺に出ずべし」。大悲経に云わく「我が滅後六十年に末田地という者、地を竜宮につくべし」。これら、皆、仏記のごとくなりき。しからずば、誰か仏教を信受すべき。しかるに、仏、「恐怖悪世」「しかる後の未来世」「末世の法滅せん時」「後の五百歳」なんど、正・妙の二本に正しく時を定めたもう。当世、法華の三類の強敵なくば、誰か仏説を信受せん。日蓮なくば、誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。南三北七・七大寺等、なお像法の法華経の敵の内、いかにいわんや、当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや。
経文に我が身符合せり。御勘気をかぼれば、いよいよ悦びをますべし。例せば、小乗の菩薩の未断惑なるが、願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かたのごとくその業を造って、願って地獄に堕ちて苦しむに、同じ苦に代われるを悦びとするがごとし。これもまたかくのごとし。
ただし、世間の疑いといい、自心の疑いと申し、いかでか天扶け給わざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者には、さるになりとも法華経の行者とごうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、その義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。この疑いはこの書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑いを強くして答えをかまうべし。
