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2012年に御慰霊にお邪魔した時公開した記録です。
2012年 ガダルカナル島御慰霊行 目次
現在公開している御慰霊行の記録です
2014年 ガダルカナル島御慰霊行 目次
今まで調べたアウステン山の戦闘記録
見晴台持久戦を戦った歩兵第228連隊
第三大隊長・西山少佐の日誌は → こちら
第十中隊長・若林中尉の日誌は → こちら
現在地 ソロモン諸島ガダルカナル州 ホニアラホテル
現地時間 05:48 日本時間 03:48
宿のフロントより外へ出ると漆黒の空に星が見えておりました。
二度目のガ島で未だに南半球でしか見れないという南十字星は何処と空の写真を撮ってみた。
日付はカメラ設定ミスにより2013年となっておりますが2014年であります。
残念ながら何も写っておりませんでした。
愈々ガ島滞在最終日、明朝には飛行場へ向かわねばなりません。
午前中に九〇三高地の麓にある筈の第十七軍司令部付近を徘徊し午後にはサイクロンにより通行止めとなっていたタナバサ川に掛かる橋の復旧を期待し前回お世話になったタサファロングの鬼怒川ボーイことボネギ村のジョン氏にお土産を届けに行こうと計画しておりました。
見晴台で南緯九度の太陽にヘタリこんだ経験から陽の明りも出ぬうちからの行動開始であります。
現地時間 06:52 日本時間 04:52
九〇三高地麓コングライ村に到着し酋長のロギノ氏宅前で迎えてくれた豚の親子
勇川上流を歩きたい旨を伝えエントランス(入村料)を支払いロギノ氏と記念撮影。
ロギノ氏は1994年立正大学探検部が「ガダルカナル島 敗戦ルート踏査」と銘打って丸山道を踏破した際の案内役のリーダーだった方であります。
1994年立正大学探検部さんが残された記録に写るロギノ氏
日の丸の鉢巻が凛々しい若き日の姿。
自分は此の立正大学・探検部さんの記録は靖国神社・偕行文庫さんで拝読致しました。
氏の登場を予想していなかったので吃驚、暫し探検部さんの記録を思い出しながら怪しい英語でひとしきり盛り上がったのでありました。
第17軍司令部付近を案内してくれるのはロギノJR
暑くならないうちにと早速ロギノJRを先頭に勇川=ホワイトリバー上流へ
勇川・ホワイトリバーの清流
ホワイトリバーは河口の川底も白色だったのですが上流も白色でありました。
さらに上流から白色の石が流れ川底が全て白色に見えるのでホワイトリバーなのだと納得した次第。
サイクロンで日頃通っている経が流れ去りルートの選択に思案するロギノJR
既に第17軍司令部位置付近と思われたが・・・
川べりの土砂は崩れ立て看板がある訳でもなくなんとなくこの辺りかと納得する。
九〇三高地南端より望む現在地、白丸付近
2012年撮影
二年前お邪魔した時は第17軍司令部位置が判明せず「この密林の何処かにあるのでは」と考えていたので概ね当たっていた事となります.
樹は倒れ
巨石は転がり
此の地を訪れるには最悪の時期だったようでありました。
後続のK隊員とノニ氏
この第17軍跡地は既に「丸山道」の一部なのであります。
歩兵第二十九連隊の尖兵中隊長であった勝股治郎氏の記録と第一野戦病院の軍医であった長谷川英夫氏の資料にはこの先丸山道で飢餓に瀕した将兵へ食糧を送るための集積洞窟が存在するとの事で「洞窟は何処か?」と問うと「少し遠いが行くか?」との回答。
是が非でも訪れたく案内を頼む。
少し進んだところで砲弾片が発見される。
これは米軍の砲撃によるものであろうと推察したのだが、新日蘭の友人は
「日本軍の残置砲弾で先端が花が開くように拡がっている事から村人が暴発を恐れ火をたいて爆発させたものだ」
との事で大変勉強になったのでありました。
さらに進むとロギノJRは川沿いから右折し密林の中へと向かう。
ロギノJRのグイグイと歩を進め写真など撮っていては遅れを取ってしまいそうである。
気が付けば周囲は密林で方向も不明、此処が各資料・記録に残る勇川から直角に折れ「丸山道」奥地への入り口だったのでありました。
つづく
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歩兵第十六連隊 連隊本部 最後の人事係 准尉 長谷川榮作さまのホームページ
冥府の戦友(とも)と語る
お立ち寄り戴けましたら幸いです。
新発田歩兵第十六連隊の兄弟部隊である高田歩兵第三十連隊の従軍記録等を公開されているウェブサイト
石坂准尉の八年戦争さま
と相互リンクさせて戴きました。
ガダルカナル島「丸山道」自主派遣隊 公式ブログ。