やっかむさ二千万などどう貯める | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

老後資金2,000万円問題を巡って、国全体が大揺れになっている。今日配信されていたダイヤモンド・オンライン誌でも、この問題に関連する記事が何本も掲載されていた。

 

前提の置き方によって、この数字はどのようにでも変化する可能性はある。だから、この数字の解釈は読み手の考え方で変わってくる。

 

ただし、これを策定したワーキング・グループのメンバーだって専門家の集まりである。そんなことは百も承知で、あえて試算結果を提示したのだと思う。

 

ただし私が思った結論は、「こんな報告書は受け取らない」と放言した麻生副総理兼財務大臣の対応が、あまりにもひどいものだったということは言える。

 

それこそ国会の論戦の中で、丁寧に説明すべきだったのに、「こんな時期に、変な数字を出してくるな」と言わんばかりの発言が、火に油どころか、火種にガソリンをぶちまけた。

 

数字が独り歩きすることは、ごく普通に起こりうることだ。特に老後資金が〝最低でも″2,000万円なければ生きていけない、というように受け取られたなら、これは国民が怒り出すのも当然のことだろう。

 

それでは、国民年金という制度はいったい何なのか、ということになって当然だ。さらに麻生財務大臣は、「90歳まで生きる人は、14%くらいなんでしょう」と言い放った。

 

「平均余命」とは、今、生まれたばかりの子どもが、何歳まで生きる可能性があるかを、確率的に算出した数字である。早くに死ぬ人もいれば、この年齢を超えて生きる人もいる。そうしたことを織り込んで導き出された数字だ。

 

平均余命から言えることは、65歳や70歳まで生きできた人は、若くして死んだ人の分の数字まで背負って生きているから、平均余命より長く生きる確率が上がって来る、ということだ。

 

つまり、赤ちゃんが90歳まで生きるのではなく、もう65歳や70歳に達している人は、平均余命という〝平均値″を越える確率が高いのだ。

 

だからテレビ番組のインタビューでも、ある専門家は、現在65歳の女性が90歳まで生きる確率は、40%あまりになるのではないか、と言っていた。麻生財務大臣の発言とは大きく食い違っている。

 

麻生氏は、この問題の担当大臣であり、「火消し」に躍起になっているつもりだろうが、発言のたびに、あきらかに国民を愚弄した物言いになっているのだ。

 

老後に備えて、全ての国民の私的財産が多いに越したことはない。「アリとキリギリス」の寓話ではないが、アリになって必死に貯蓄しなさいと言われても、銀行利息など引出手数料がかかれば、吹っ飛んでしまうくらいのものだ。

 

泥棒に狙われないために、タンス預金の代わりに銀行に預けているだけだ。キャッシュレス社会だろうと何だろうと、預貯金が増えるためには、収入が増加するか、生活費が減少するかしかない。

 

その収入が、このところほんの少しだけ増加傾向にあったが、この夏のボーナスは、経団連の試算では〝前年割れ″だったらしい。その上、この秋には消費増税が待っている。この状況で、〝最低2,000万円の老後資金を″と言われたら、庶民は立つ瀬がないのだ。

 

その金額が準備できるならいいが、若い人の中には、こんな話が出て来るようでは結婚もできないし、ましてや子どもを育てることも困難だ、という気持ちになる人が現れることも考えられる。

 

つまり、少子化に一層拍車がかかり、年金を払う年齢層が減少してゆく社会になる。現に昨年の出生数は93万人とまた過去最低だった。これでは、この先は老後資金の準備額が、2,000万円よりもっと上積みされるかもしれない。

 

そこへ、先日の新聞報道では、「地方創生」は「移住政策」だけでなく「交流政策」も考えるべきだと、方針転換されたということだった。

 

いくら「地方創生」と叫んでみても、現実には「人口の社会的増減」では、首都圏への「流入増加」が止まらなくて、ますます「首都圏一極集中」が加速しているということだった。

 

こんなものを是正するのは、国会と国の官庁が、首都圏から分散・移転すればいいだけの話だ。それすらできない。いや、国会の議論の中で約束した議員数の削減すらできないくせに、「報告書は受け取らない」から「そんなものはなかったこと」などと言っている。

 

この国は、いつから民主主義を放棄したのだろう。いや、国会議員選挙で勝たせているのは私たちなのだ。だから、本気で怒っているとは思えないし、政府も「どうせ国民は、与党を勝たせるだろう」と高をくくる。

 

所詮、「2,000万円騒動」だって、夏の参議院選挙の頃には、国民はもう忘れているだろうから、これでまた、今までと変わりなく〝のんべんだらり″と日が過ぎて行く。

 

そもそも、国民年金などの「公助」と、私的財産による「自助」だけで社会が成り立っているわけではない。その中間には「共助」という「助け合い」「互助精神」によるシステムがあるはずである。

 

 

 

公的保険制度だって、広く考えれば「共助」の一種である。子どもの医療費無償化や保育料の減免などの制度だって、税金の再分配という形での、お互いの助け合いである。

 

さらにその外側に、社会的活動としての「共助」が存在している。これらが十分に機能すれば、多少は生活にゆとりも出て来るかも知れない。

 

しかし、それでも一般的にみて国民生活が苦しいのだとすれば、それは首都圏一極集中の是正によって、本来の意味での「地方創生」を行い、富の首都圏集中から、再分配の構造を変化させない限り難しい。

 

老後資金うんぬんというよりも、「地方創生」の実現による、富の地方への再分配を創り出さない限り、「2,000万円問題」は、これからも形を変えて何度も蒸し返されるだろう。

 

文部科学省の外局の文化庁の、そのまた一部分を京都市に移転するというだけで、すったもんだの大騒動になるくらいだから、国会と主要官庁の各地への分散など、望むべくもないことだろう。

 

 

 

それなら、いっそもっと大量に、できれば老後の世代が中心になって、首都圏に流入していって、首都圏の機能がマヒするところまで行けば、ちょっとは改善を考えるだろう。

 

それとも、江戸幕府が「入り鉄砲と出女」を関所でチェックしたように、首都圏との「入り老人と出金」をチェックするのかな。自分たちに都合が良いように。

 

今回の2,000万円問題ほど、「あほらしい」問題は少ないと思う。誰だって、自助努力だけで老後を暮らせるなら、それが良いに決まっている。ただ、「政治無策」の中で踏みつぶされる多くの庶民の声なんて、どこに向かっても届かないのだろう。

 

それだけは、いつの世も変わらない事実なんだろう、きっと。岸信介・元総理と、吉田茂・元総理のお孫さんがツートップの国では、生まれながらにして「銀のスプーン」を加えていないとダメなのだろうか。