薫風に 着物姿で 銀閣寺 | がいちのぶろぐ

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今日は5月の第2日曜日、つまり母の日。朝から家人宛てに息子夫婦と娘夫婦から、それぞれプレゼントが届いて、華人は大喜びしている。私は、昨日までの〝怒涛の″週後半を過ごして、少しだけ疲れてぼんやりしている。

 

 

 

今日は朝から、しっかりとした雨になった。韓国の古い友人夫妻が京都を訪れていることは、すでにブログ書いた。彼らは、今日午後の飛行機で韓国へ戻って行った。実に京都にいる間だけ好天に恵まれた、という結果に私もホッとしている。

 

木曜日の夜に一緒に食事をした後、金曜日は彼らだけで、一日、嵐山へ出かけていたらしい。最初は、伏見稲荷大社にも行って、千本鳥居を見たいと言っていたのだが、まずは嵐山へ行くことにしたのだという。

 

その嵐山では、現在は一番の人気スポットとなっている「竹林の小径」を散歩して、彼らもとても気に入ったらしい。嵐山から宿泊しているJR京都駅近くのホテルへ戻り、その後、JR京都駅ビルにある伊勢丹デパートで夫人が買い物をされたらしい。

 

 

 

昨日、私の友人がこっそりと〝こぼして″いたのだが、なんと3時間余りも夫人の買物のお供をさせられたということだった。それで彼は怒り狂いそうになったと、笑いながら話してくれた。これは、何時いかなる時でも、男どもには良くわかる心情である。

 

ということで昨日は、私と家人が彼らから受け取ったお土産のお返しにと、夫人が着物で町歩きをできるように手配をした。何度か書いたけれど、着物のコンサルティングと販売を始めた若い知人女性のお店「水端(みずはな)」に行き、いっさいをお願いした。

 

 

 

午後少し遅めにお店にお邪魔し、夫人が店主に着付けをしてもらっている間、友人と私はそのお店の周囲の、昭和の香りが漂う街並みを散歩した。近くには、有名なパン屋さんの「まるき製パン所」があった。店の前では、その時も15人ほどが行列を作っていた。

 

 

 

このパン屋さんは、コッペパンに色々な具材を挟んだものなどが有名で、ファンも多くいつも行列が絶えない店として、知る人ぞ知るという有名店である。

 

 

 

さて着付けを終えた夫人ともども、京都市バスに乗って向かった先は銀閣寺。ご夫妻はそれぞれに日本、京都へ何度かは来られているので、金閣寺や二条城へは行かなくてよいということで、銀閣寺とその近くにある哲学の道へ行きたいという希望だった。

 

銀閣寺道のバス停に着いた時には、すでにお昼時になっていたので、まずは銀閣寺近くにある、こちらも有名なうどん屋さんの「おめん」に行った。私自身も、もうずいぶん長くこの店には来ていない。

 

 

 

このお店がスタートした頃には、ツルッとした喉ごしのうどんと、〝浸けうどん″というスタイルが物珍しくて、一気に有名店になった。それでお店は繁盛し、今では京都市内に何店舗かお店を出されている。

 

 

 

さて銀閣寺に向かうと、外国人観光客と修学旅行の中学生が、それこそ道を埋めるように歩いていた。ところで、銀閣寺の拝観券がちょっと変わっている。幅7cm、長さ20cmほどで「お札」風のデザインになっている。これって、外国人観光客には嬉しいだろうと思う。

 

 

 

さて銀閣寺に向かうと、外国人観光客と修学旅行の中学生が、それこそ道を埋めるように歩いていた。ところで、銀閣寺の拝観券がちょっと変わっている。幅7cm、長さ20cmほどで「お札」風のデザインになっている。これって、外国人観光客には嬉しいだろうと思う。

 

 

 

 

数週間前のNHK「ブラタモリ」で、タモリさんが銀閣寺を訪れて、「東山文化」の話をされていた。そこでも話題となっていたが、銀閣寺の境内の小高い展望台に上がっても、京都の市街地は見えない。すぐ眼前にある、吉田山という標高100m余りの岡が遮っている。

 

室町幕府の第8代将軍・足利義政が530年ほど前に、この地に「東山殿」として建立したのだが、その頃には将軍家の力が衰え、将軍義政は政務を嫌って、この東山殿に籠り、ここを文化サロンのようなものにしていたらしい。

 

 

パンフレットにも、「義政公を中心に形成された東山文化の発祥地であり、日本人の近世的生活文化の発端をなしている」と書かれている。「ブラタモリ」でもそれを話の展開の中心に据えていた。

 

 

つまり今、私たち日本人の心根を形作る上で、一つのキーワードとなっている「侘び寂び」と表現される文化の源流が、この銀閣寺にあるということだ。金閣の金箔を張り巡らせた〝きらびやかさ″の対極にある、黒漆で覆われた銀閣が象徴するものとは何か、ということだ。

 

 

そこを深く突っ込むほどの知識も持ち合わせていないが、銀閣寺にあるもう一つの国宝の建物「東求堂(とうぐどう)」は、将軍義政の持仏堂として建てられた、檜皮葺の平屋造りである。

 

パンフレットでは、この建物の中にある四畳半の間は「同仁斎」と呼ばれ、「東山文化を生み出す舞台となり、また草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれている」と書かれており、タモリさんは特別にこの四畳半に通してもらって、感激しておられた。

 

  

 

「売り家と唐様で書く三代目」という、江戸時代の有名な川柳があるが、力が衰えてくる代わりに教養は上がって行く、という子孫の代の特徴だろうか。8代将軍義政の頃から、世は戦国時代に向かって、急速に変化を始めることになる。

 

銀閣寺でかなり長い時間、見物したり写真を撮ったりした後、友人夫妻と銀閣寺からすぐ近くにある「哲学の道」を少し散歩した。琵琶湖疏水の両側には桜並木が続き、春は花見の観光客で身動きもできないほどの混雑になる。

 

 

 

着物姿の友人の夫人は、さすがに着慣れない格好だから少し疲れが出てきたので、哲学の道沿いにある〝昭和レトロ感″いっぱいの喫茶店で一休みした。

 

店内には「蓄音器」や足踏みミシンが飾られて、壁一面に絵画や書が掛けられている。さらに初老の洒落た感じのマスターがコーヒーを淹れてくれるという、絵に描いたような喫茶店だった。

 

 

 

さて、夜の食事会のための着替えも必要となって、これで散歩は終わりにして、着物をお借りした「水端(みずはな)」に戻った。着物から解放された夫人は、さすがに少しホッとされていた。

 

夜は私の家人も加わって、4人で「先斗町」の日本料理のお店で会食をした。先斗町も、相変わらず相当な人出だったが、さすがにゴールデンウィークが明けた直後の週末であり、来週の15日に葵祭りを控えているとあって、人出も若干は少ないように感じた。

 

 

 

友人夫妻とは、20年ぶりの再会となったのだが、私の家人を含めて、韓国語と日本語、英語が混じり合った、実に不思議な会話が続く夜になった。友人は最近、仕事の関係でかなり頻繁に日本を訪れているような話しぶりだった。

 

 

 

また近いうちに会えることを約束し合って別れたが、最近の私にとっては、滅多にない多忙を極める週末になった。

 

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