
「おい、聖ぃ!」
足を止めて振り向く聖の側まで、勇貴は走った。聖が白い歯を見せて笑う。
「よし、来たか」
「…?」
「テニス場まで、走れば間に合わないこともねーぞ」
「…?…試合、か?」
「稜平、留学すんだってさ。最後の試合だ」
勇貴は目を見開いた。
『俺の相棒は勇貴だけなんだ!』
稜平はあの台詞をどんな気持ちで言ったのか。
(あぁ、馬鹿だよ、俺は…)
「行くぞ、聖!」
「稜平の奴、待ちくたびれてっぞ、絶対」
ふたりは並んで駆け出した。勇貴は久し振りに感動を覚えた。
一緒に走ってくれる聖の心遣いが嬉しかった。
「何ひとりで笑ってんだよ、お前。気持ちわりー奴だな」
聖はそう言って数歩前に出る。
勇貴は頼もしい親友の背中に向かって言った。
「倒れんなよ、そんなにやせちゃってさ…」
「馬鹿野郎、俺はそんなにヤワじゃねーよ!」
勇貴はさわやかな気持ちでただ走っていた。何故か、不思議と、疲れは感じなかった。
思い切り走れば、余計なものを後ろに置いてこれる気がした。親友の広い背中に向かって、勇貴はもう一度叫んだ。
「ありがとう、聖!」
聖の返事はなかったが、前を走る彼の照れた顔を想像して、勇貴は笑った。
◇◆◇◆
テニス場の客席で、友希子は何度もグランドを見回していた。
「やっぱり、大橋来てないわよ」
隣では中務が勝利の微笑みを浮かべている。
「やりましたね、西沢さん」
中務が友希子の白い手に触れた。慌てて払いのける友希子。
「何すんのよッ。気安く触んないでよね!」
「やだなぁ。握手ですよ、握手。僕たち、『同志』じゃないですか」
「関係ないわよ、もう」
「冷たいですね、相変わらず。…でも、そこが魅力…かな。うちの父も、西沢さんのことを大変気に入ってましてね。良かったら、今夜、うちに来ませんか?」
友希子は、目を丸くして中務を見た。さりげなく眼鏡をずり上げる中務。
「ど、どうして私が…」
「いいじゃないですか。作戦成功を祝って、一緒に食事でもしましょう。さぁ、手に手を取って、参りましょう!」
中務が友希子の手をつかんで歩き出す。
その時。
テニスコートに純白のユニフォームをまとった大橋勇貴が現れた。
「大橋…」
ぽつりとつぶやく友希子。中務が振り返る。瞬間、彼の顔が激しくひきつった。
「…い、一ノ瀬…!何故だっ!?どうして!?」
中務は力なく叫んで、頭を抱え込んだ。がっくりと座り込む中務の前にかがんで、聖は軽く溜め息をついた。
「俺を利用して、勇貴をツブそうって魂胆だったんだろ。分かってたよ」
「畜生!計画は滅茶苦茶だ…!」
中務が絶叫する。立ち上がる聖。左手で前髪をかき上げながら、友希子に視線を移す。
「ま、気付いたのは最近だけどな。それまでは完全に西沢にハメられてた。あんたの演技力、大したもんだったぜ」
愕然とする友希子。大きく首を振る。
「違う…違うの…」
「もういいよ。分かるよ。勇貴ってさ、トロくて優柔不断で、マジでどーしよーもねぇ奴だもんな。ツブしてやりたくもなるよな」
友希子は顔を上げて聖を見つめた。鋭い眼を一瞬だけ優しく細めて、聖は身を翻した。
立ち去る彼の背中に、友希子が強く呼び掛ける。
「待って!」
聖は振り向きもしない。
「確かにそうよ。あなたの言った通りよ。でもね、大橋への復讐心があったのは、最初だけ。今は、違う。私、一ノ瀬が好きなの。ハメるはずが、逆にハメられちゃったってわけ…。不覚にも、敵に惚れてしまった。――あなたが、好きなの」
真剣な表情で振り返る聖の瞳に、大粒の涙を流す友希子の姿が映った。
中務は、口をぱくぱくさせてふたりの顔を交互に見るばかりだ。
聖は申し訳なさそうに目を伏せた。
「悪いけど、俺…これ以上、西沢と付き合う気はない」
「……」
友希子は無言で聖を見上げた。
「あんたといる時、すっげー楽しかった。だけど、愛だとか恋だとか、そーゆーんじゃない。なんか、性に合わねぇんだ。俺みたいないい加減な奴には、合わねーんだよな。そんな気持ちで付き合いたくねーし…それに、今はまだ、他にしたいこともあるからさ」
素直にそう言える聖が、友希子にはひどく輝いて見えた。
(そうか。私は一ノ瀬のこういう所に惚れたのかも…)
友希子は涙を振り払っていたずらっぽく笑った。
「じゃ、友達。それなら、いいでしょ?」
小さく笑って頷く聖。友希子はグランドに視線を投げた後、まっすぐ空を仰いだ。
空は、抜けるように青くまぶしかった――。
