此処では史実とは逆に、もしも山形テレビのネットチェンジが阻止されたとテレビ朝日系新局が開局していたらの歴史のifを綴りたいと思います。
もしも平成の山形民放の歴史が異なっていたら?


史実での山形四局

山形テレビネットチェンジ阻止
1992年、山形テレビは経営不振を理由にネットチェンジを企てていたが、それを知ったフジサンケイグループは、山形テレビの社長をフジサンケイ派の人物を据え、朝日新聞派を一掃。
その後鹿内宏明の失脚に成功した日枝久は、宏明前会長の非礼を詫びつつ、山形テレビの経営支援を取り付けた。
程なくして山形テレビは山新グループを離脱し、完全にフジサンケイグループの一一員に収まった。
その後、フジテレビ系の比率を増やし、山形放送から押し付けられていた日本テレビ系の番組とテレビ朝日系の番組を排除、山形テレビはフジテレビとテレビ東京の番組中心の編成となった。
ここで分岐発生

甲・朝日派の逆襲・山形第四民放局新設
しかし、フジテレビの計略で株主を追われた相馬大作元酒田市長は山形のマスメディアの未来を憂慮しており、「YBCが日テレとテレ朝のクロスネットのままでは悪影響を及ぼす」と判断。
そこで、当時の知事に働き掛け山形第四民放局の新設の行動を開始する。
経営体力の問題から後の琉球放送と琉球朝日放送の手法を手本に「山形放送内にテレビ朝日系民放局を開局する」「一局二波方式」で開局する事を選択。テレビ朝日側は当初消極的だったが、相馬氏や関係者の熱意に推され開局を決断。
1995年に免許が交付され、1997年4月にテレビ朝日系最終系列局「YAT・山形朝日テレビ」が開局。山形の民放四局化を達成し、山形テレビのネットチェンジは出来なかったものの、自前の局を開局させた事で解決を見た。
相馬氏を始め、元山形テレビ関係者やテレビ朝日関係者が経営に関与した。

乙・山形放送テレビ朝日マストバイ化・YYT山形讀賣テレビ開局
しかし、相馬氏はYBC山形放送の日本テレビとテレビ朝日のクロスネットと言う抜本的な問題を解決しないと、山形のマスメディアの問題は解決しないとの考えを変えず、折しも山形放送の局舎老朽化による建て替えを控えており、当時の知事と協力し、山形第四民放局開局を計画する。
一方で体力的な問題から後の琉球放送内に琉球朝日放送を設置する「一局二波」方式を導入し、第四民放局を日本テレビ系マストバイ局として開局する事を考える。日本テレビは難色を示したものの、「完全マストバイ局」と「早期に放送エリアを拡大する」事を条件に日本テレビを説得。
1995年に山形第四民放局の免許が交付され、1997年4月山形放送の新社屋完成に合わせ日本テレビ系マストバイ第四民放局「YYT・山形讀賣テレビ」が最終系列局として独立開局。当初の構想とは異なったが、これで山形民放四局を達成した。

丙・民放四局化達成ならず
その後、民放四局化を模索するも、反対が多発した為、開局を断念せざるを得なかった。
結局、今日も山形放送のクロスネットは解消されず、今日に至っている。
甲と乙の展開だったら平和な解決だったかも知れなかった反面、あの頃YTSの経営悪化は待った無しの状況でした。