1991年3月14日、「山形の天皇」と呼ばれた服部敬雄氏が生涯を終えました。

服部敬雄は「山形のナポレオン」、「山形のヒトラー」の異名があり、山形の全て思いのままに操りました。服部敬雄はアドルフ・ヒトラーとの共通点が多かったです。

全ての発端は浪人生時代の1991年、マクドナルドの割引券に「山形県を除く」と書いてあり、何でだろうと思いましたが、山形の事情があった事を後年知りました。(マクドナルドの割引券は服部氏の死後の出来事)

こう言う事を言っておきながら
実際には山形のマスメディアを都合良く弄り、YBC山形放送には社長として、YTS山形テレビには顧問としてそれぞれ支配し、当時は日本テレビとテレビ朝日のクロスネットだった山形放送と当時はフジテレビ系だった山形テレビをどちらもごちゃ混ぜにして放送していました。

こう言う糾弾もあったが
山形のマスメディアの異常性を訴えるも、服部氏には柳に楓で、その絶大な権力を利用して、クロスネット局にも関わらず西部警察全国縦断ロケを誘致しました。

貨車にミサイルを積むと言うエピソードだった

その他、マクドナルドの出店拒否、山形交通バスで遅刻した社員を不当解雇したり、山形交通バス自体労働組合を作らせなかったり、YTSクルーが取材に間に合わず、YBCからVTRを借りたら関係者が更迭されたり、ライバル社のホテルのCMを一切拒否したりと罪の点は挙げるとキリが無く、一方の功績として、山形空港を誘致したり、日本初のミニ新幹線・山形新幹線を誘致したりの功績もありました。

服部氏の独占の終焉
そんな服部氏の独占も平成に入り、テレビユー山形とFM山形の開局決定は山形新聞も報道し、山形第三民放局と山形FMラジオ局は山形新聞もダミー申請を行ったものの「特定の資本にマスコミが集中する」マスコミ資本集中に抵触し、支配が叶わず。FM山形とTBS系第3民放局・テレビユー山形の開局で崩壊が始まり、山形テレビに無理なサイドビジネスを行わせるもブーメランで経営が悪化。
更に死去の4ヶ月前の1990年12月にはマクドナルドが出店、その後、ファーストフード、ファミレス、コンビニが相次いで開店。山形の開国が進みました。
そして、山形新幹線の一番列車の発車を観る事無く、服部氏は生涯を終えました。
その訃報を聞き、赤飯を炊いた家庭もあったそうで、その後、服部氏が無理矢理支配していた山形テレビが反旗を翻しテレビ朝日系に鞍替えすると思いも寄らなかったに違いありません。