ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


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「家守」(志賀直哉、岩波文庫『志賀直哉随筆集』所収)
 
 小説において「私」は、意図をもって行為する、あるいは意図を持たずにふと行為する、はたまた近く書かれるにもかかわらず未だ為されていないが既にして確定している行為より事後的にあるものとなされた意図なるものがしかし一番のはじまりとして行為を生み出す、というそれぞれに異なった見解があるのだろうが、それは決していずれの見解が正しいものであると決定することができず、よしんば私小説というものを単に事実をありのままに書くことへの意思を前提としたものだとし、また小説内においていずれかの見解であるのだとしても、私たちはその書かれたのだというある見解が正しいものであるとすることはできない。小説内の「私」であろうと、現実の「私」であろうと、行為の原因を求める理由そのものが、私たちが言葉を用いて反省を継続するよう宿命づけられているからであり、また、その言葉をないものとして、行為の原因を求めることは、不可能でもあるし、無意味でもあるからである。しかし、小説内の事実として行為がなされたことは確かであり、その行為がそれ以後においてどのように評価されるかを考える時には、さきの見解を前提としなければならない。

 ここではある行為が後に否定される場合を考えよう。最も単純なのは、行為の結果が行為の意図を裏切った、あるいはふとした行為が自らを窮地に追い込んだ、とする場合である。この時、行為の否定には理由があるし、それにより小説の見通しが保証される。しかしそうでない場合、その行為を否定する私は、自らの意図--それが行為の前提であれ行為からの遡及によるものであれ--や、行為前後の功利的状況によってその否定を導出するのではなく、もっと理に合わないもの、結びつけることができないもの、一般化できないものによってその導出がなされてしまっているのである。

 例えば志賀直哉「家守」は、上に述べたような通常ではない行為の否定により、読み手としての私たちは途端に通常なる圏域より放出されるか、あるいはあまりに私的なもの--しかし、それは決して小説内の「私」や書き手である「私」ではなく、それら「私」が傾向するほかなかったある奈落の先--に懐かれることになる。くれぐれも注意しておかなくてはならないのは、それが「私的な意図」を書いた作品ではないのはもちろん、真の小説であるなら書かれることは必然であったにもかかわらず、その行為の否定が私的に了解されるわけでも、殊更に意図されたものではなく、その行為の否定が事実を書いたという事実あるいは約束事の内に織り込まれてしまっているということである。だから、それは決して「家守」の主題--「主題」なるものがあるなら、という話であるが--ではないのだが、しかし、にもかかわらず「家守」が小説であることを支える唯一の根拠なのだ。書き手は書き手としての宿命として、常ならぬ行為の否定を書いてしまい、読み手はそれによって魅惑される。

 朝、「私」は天井より落下した家守を見つける。「自分は炭取から火箸代りにしていた杉箸を持って来て家守をつまみ出そうとした」。「自分は殺さないとまた晩に入って来るだろうと思った」。だから「私」は箸を家守りの脳天に突き刺したのだが、死にきらない。しかしもはや死んだも同然だったので、「死骸は箸からぬいて庭の隅へ捨てた」。
 朝食をとって後、窓外に雀が死にかけの蝉をなぶっているのを見て、さきほど捨てた家守の様子をみに庭に出ると、はたして家守は、「片眼は飛び出したまま、脳天は穴の開いたまま」生きていた。「そして自分は気味悪さと同時にある怒りを感じた」。
 なので「私」は竹箒で濠に落とそうと掃いたのだが、勢い余って家守は遠くに飛ばされ、ついに見つけられなくなる。「私」には「家守が生きている事は凶事のように思われた」。しかし幸い半月ほ出張する用があったので、他人に留守宅を頼む。

 以上がこの作品の要約である。ひとによっては行為の否定などないと思われるかもしれないし、それは素直であるが故に正しいかもしれない。また、ひとによっては家守を殺したという行為が、当の家守が生きていたことによって否定されていると思われるかもしれないが、それは上記に言う常ならぬ行為の否定ではない。それは殺しきれなかったことへの悔やみによる行為の否定(「自分はもしこの家守がこのまま自然に元通りのからだに癒ってしまうだろうと考えられたら生返った事を喜べたかもしれない」)であり、殺すという意図が貫徹されなかったことによる行為の否定であり、殺しきれなかった事実を知ったことによる主観的功利の低減による行為の否定であるかもしれない。しかし、そうした読み取りのみではこの作品の魅力を説明できないと私は思う。

 脳天に穴が開き、片眼の飛び出した家守が生きているはずがない。しかし、にもかかわらずそれは生きていた。注意を促すべきは、自然の生命力の豊潤を謳っているわけではないということだ。それは、単に起こり得ないことが起こってしまったから、その事実が殺害という行為を否定し、「私」は気味悪さと怒りとを感じたのである。先の引用にある「生返った」という言葉は、主観的には死んでいるものとばかり思っていたので主観的には「生返った」と感ぜられた、というのみではなく、同時にその台詞は、事実「生返った」ことを表しているのだ。そして、その生返りが気味悪さと怒りとを喚起するわけではなく、生返りがいとも容易く、事実として書けてしまい、その書かれてしまったという事実に気味悪さと怒りとを感じているのである。

 少なくとも志賀直哉のある私小説は、事実を事実として書いたことにより、小説として優れているわけではなく、事実を事実として書くというその約束事において、事実とはなり得ないものも、書いてしまいさえすれば事実であるのだという形式による反転した暴力に「私」が対峙されるという事態に私的である所以があるのだ。

 常ならぬ行為の否定は家守の生返りのためである。しかし、なぜ家守は生返らなければならなかったのか。それは「私」の傾向として、私的な領分の内に閉じられたままである。



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