舞鶴引揚記念館と海自舞鶴基地を見学しました | ごとう勇樹のときどき日記

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緑豊かで人情味が厚く、多くの文化財が残る滋賀県日野町。日野菜漬けの原料・日野菜は日野町が原産!


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 昭和38年から始まり、今年で56回目を数える我が鳥居平集落の字旅行。晴天の下、昨日、舞鶴・小浜方面に行ってきました。

 

 まず初めに見学したのは舞鶴引揚記念館。満州や朝鮮半島、樺太、千島列島でソ連共産党軍(ソビエト連邦軍になったのは1946年。それまでは共産党軍、いわゆる赤軍)に降伏した旧日本軍の軍人や民間人の多くは、「トウキョウ・ダモイ(東京へ帰るぞ)」と騙されて貨物列車に乗せられ、ソ連共産党によりシベリアの強制収容所に抑留されて重労働を強いられ、その数は約60万人と言われています。マイナス30度にもなる極寒の地で、粟のおにぎり1個にわずかに塩味のついたお粥やスープという粗末な食事で、過酷な労働を強いられた結果、死亡者が続出したと言います。また、かろうじて命を取り留めて帰還できた人でも、1尾の魚を数人で分けたり、木の皮を煮て食べたり、時には食料の奪いあいも起こるなど、筆舌に尽くしがたい状況を体験した人も多くあります。

 

 

 栄養状態が悪いことや不衛生な収容所生活により、体にノミやシラミがわき、コレラや赤痢などの伝染病が蔓延したこともあったそうです。また、彼らは夏場に捕縛されたため、寒さの備えがない人がほとんどだったことも死者が続出した要因だったそうです。

 

 

 抑留された日本人およそ57万5千人のうち、死者の数は5万5千人。およそ1割の人が劣悪な環境下で命を落としました。ですが、この人数については、戦後73年以上経っている現在でも、まだ正確な数字がわかっていません。抑留された方や、その帰りを待ち続けたご家族のことを思うと、とても胸が痛くなります。

 

 広島の平和祈念資料館や長崎の原爆資料館、日野町のお隣、東近江市にある滋賀県平和祈念館などの資料や、戦争についてのドキュメンタリーなどに触れると、毎回、反戦平和の誓いを新たにします。ですが、国会や自衛隊、米軍施設などの前で反戦・平和デモをやったり、自衛隊解散を訴える人たちには疑問に思う点がたくさんあります。

 実は私も以前は反戦・平和デモや街宣に参加した経験があります。彼らは「平和を守れ!」と言います(または言わされます)。私は、ある時からこれらの行動に対し、心の中で大きな疑問と矛盾が芽生えてきました。

 それは、平和と言うのは守るものではなく、努力を積み重ねて、日々築き上げていくものだからです。今から28年前、私がまだ20代だったころ、中東で湾岸戦争が勃発しました。当時のクェートはイラクと言う強大な軍事国家を隣国に持ちながら、ほとんど軍備らしい軍備を持たず、オイルマネーによる平和と繁栄を謳歌していました。その結果は皆さんもご存じのとおりです。

 こちらが軍備を持たないから相手も攻撃してこない、憲法で戦争を放棄しているから侵略は受けない。そんな理屈が通用するほど世界は甘くないと私は思います。外交があるではないかと言う人もいます。しかし、かつて起こったすべての戦争は、そのぎりぎりまで外交による話し合いで戦争を回避する努力が取られてきました。

 容易に侵略を許さない、または侵略と言う手段を選択させないためには、しっかりとした安全保障上の施策と、日々訓練を重ねた精鋭揃いの自衛隊が必要不可欠です。彼ら無くして日本の平和と繁栄はあり得ません。彼らの血と汗の積み重ねによって、日々、わが国の平和と繁栄は築かれていくのだと思います。

 

 舞鶴引揚記念館を見学した後、海上自衛隊の舞鶴基地に向かい、北吸桟橋に停泊している護衛艦せんだい(DE-232)と補給艦ましゅう(AOE-425)を見学し、日々我が国の人命、国土を守り、平和を築き続けてくださっている自衛隊員さんに心からの感謝を捧げました。

 

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