見知らぬ老婆~神について語る
財布の中身は、空っぽだった。
それでも、書店に足が向いてしまう。
俺はひらずみの一角を眺め、おもしろそうな本がないか、視線をさまよわせた。
「とても、沢山の本があるわね」
いきなり、見知らぬ老婆が俺に語りかけてきた。
老婆は杖をつき、皺だらけの顔をほころばせている。
「なんでも、本にしてしまうのね」
おもしろいことを言うじゃないか。
俺は目の前の、小さく萎縮してしまった老婆に、少しばかりの興味を覚えていた。
「ここに置いてある本の中にも、おもしろいやつはありまよ、多分」
俺が言うと、老婆はあまりにも唐突に、聖書はどこに置いてあるのか、と言いだした。
(老婆は、聖書がこの世で、もっともおもしろい書物だと言いたかったのか?)
奥にあるんじゃないかな、と、俺は言う。
「私は、聖書を食べて、生きているのよ」
やっかいな相手だ、これは。
俺は即座に そう判断した。
案の定、俺の困惑など知ったことかと言わんばかりに、老婆はしゃべり始めた。
神に許しを請うたのか、懺悔をしたのか、
その後、生活が激変したなどと言っている。
俺は曖昧に返事をしながら、雑誌が並ぶ棚の方へ、さりげなく移動した。
老婆も、俺の後を付いてくる。
俺の隣にぴったりと張り付き、どこまでも、付きまとうつもりのようだ。
老婆の話が、戦時中、いかに苦労したかというような話になった。
そのとき、神が救ってくれた。
多分、そんなことを言っていたのだろう。
俺は雑誌を読んでいて、老婆の話は半分も聞いてはいなかった。
まいったという表情を作り、老婆に相づちを打つも、老婆はいっこうに気にかけない。
俺は雑誌を読みながら、老婆がいう単語を拾っていた。
~宇宙も、無数に輝く星も、月も、地球も、神が創造されたと、聖書に書いてある。
なんだそれは。
神はビックバンと同義か?
~私の心は、神の許しを得て、今はとても清らかだ。
それはよかった。
それ以外になんと言えばいい?
~神はまず、男を創造され、ひとりで寂しそうなので、何かの肋骨から女を創造された。
それは違うぞ。
まず、女が先だ。
そして男は、女から作られたのだ。
男は女の亜種だ。
科学では、そう言うことになっている。
次第に、雑誌よりも、老婆の話が気にかかるようになってきた。
~聖書は人が書いたのではなく、神が書いたのだ。
それも違うよな。
キリストの弟子が書いたんじゃなかったか?
老婆がついに、「天国」などと言い出した。
~心や魂は、目に見えない。
この世の尊いもの全てが、目には見えないのだ。それは神も同じだ。
俺は我慢できずに、一つの疑問を老婆にぶつけてみた。
「キリスト教の場合、天国へ行った後、生き返ることが出来るんでしたっけ?」
今度は老婆が困惑の表情を浮かべた。
俺は、とんでもないことを聞いてしまったのか?
俺はどちらかと言うと、仏教的なものにふれて、育った。
日本人の殆どが、おそらくはそうではないか?
転生は、仏教の考え方だった。
老婆は確固たる自信を持って、こう答えた。
~天国で、完璧な安らぎを得ているので、生き返る必要など無い。
俺はうんざりしてきた。
ここで俺が、神などいるものか!などと言ったら、老婆は悲しむだろうか?
老婆は、実に自信たっぷりに、己の信ずる神について語り続けた。
それは、ある意味、うらやましくもあった。
ここまで、なんの迷いもなく、信じられるものがあるなんて、すごい事じゃないか。
老婆はひとり、自分の信ずる神に祈りを捧げればいい。
神を信じない俺なんかに、神のことを語る必要など無いのだ。
老婆は熱く、神について語り続けている。
俺は雑誌を棚に戻し、老婆に
「なるほど」
と、ひとこと言い、踵を返した。
歩き出した俺を、老婆は黙って見送っていた。
もう、付いてはこなかった。
