幸も不幸も、苛立ちも安らぎも、すべては~
俺は唯一、カードの使えるスーパーへ行き、80円のカップラーメンと、
88円の食パン一斤を買い物籠に入れて、レジに並んだ。
目の前の父子の籠の中には、パスタが二袋に、たらこソースが二袋入っていた。
息子と楽しそうに話している。
さらに、レジの外へ目を向けると、初老の婦人とその娘と思われる二人が、
やはり、楽しそうに談笑しながら、エコバックに食品を詰めている。
店の中すべての人が、幸せそうだった。
俺は何だか気詰りになり、視線を足元に向けた。
いつもは、このレジの列に並んでいると、不愉快そうな爺や婆ばかりが、
俺の不快半径にまで進入し、レジの進む方向を、首を突き出して眺め回しているのだった。
俺はそのとき、ある考えに思い至った。
このスーパーの中には、幸も不幸も、苛立ちも安らぎもない。
すべてを内包していて、しかし、実は零、無であるのだ、と。
俺が意識を向けたものが、立ち上がるだけなのだ。
不愉快なものをあえて観ようとすれば、そうなるし、
心地よい事象に意識を向ければ、そういった現象が立ち上がる。
すべては自分と世界の関係性の問題で、自分自身の、意識の問題なのだ。
俺の思考は、さらに先に行った。
死後。
人は自分の作り上げた場所に行くだけだ。
天国を信じるものは、天国に行くし、罪悪感に苛まれながら死んでいったものは、
きっと地獄に行くのだろう。
天国も地獄も、人の精神が作り出した、仮想空間なのかもしれない。
俺は空想を中断し、持参したコンビニ袋に、パンとカップラーメンを詰めて店を出た。
俺は何を望んでいるのだろうか?
幸せか。
それとも不幸か。
苛立ちか。
安らぎか。
己の意識を向けたものが、この世界に立ち上がるのだとするならば、俺は不幸を求め、
苛立ちを求めているということになる。
車で会社へ向っていると、ふと、目の前に、荷物を満載した自転車が走ってきた。
前輪と後輪の左右に、驚くほどの荷物で、さらに馬鹿でかいザックも背負っている。
蓄えられた髭が、旅の長さを物語っていた。
外国人だった。
俺はその姿に、魅入られた。
そう。
俺もそんな、旅がしたかったのだ。
自転車で一人、世界中を渡り歩くといった旅が。
俺は、その自転車の旅人へ自分を重ねてみた。
想像の中の俺は、彼と同じように微笑を浮かべ、
道のはるか彼方へ視線を向けた。
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