長承寺
の御朱印








3月に参拝の際は、
御住職御不在で御朱印頂けなかったのですが、
写真は撮っていたので、
3月6月の木々の対比お楽しみください🌳
大体同じようなアングルで撮ってあります📸








圓通閣(3月/6月)








山門(3月/6月)








太白山長承寺(3月/6月)








奥州三十三観音霊場二十三番札所
(3月/6月)








阿像(3月/6月)








吽像(3月/6月)








本堂(3月/6月)








観音堂(3月)
弘仁元年(810)、
比叡山延暦寺三世慈覺圓仁大師が
奥州遊歴衆生済度の折当地に
参籠草庵を結び自ら四尺六寸(135センチ)の
千手観世音菩薩の座像を彫刻し御堂に安置、
それが二十三番札所の御本尊であり、
さらに左右には
不動明王、毘沙門天、二十五の菩薩、
法堂には阿弥陀如来、
山門には仁王大像、
外堂には白山薬師二体、
大師直作の子安堂には
地蔵菩薩得一菩薩を安置、
庫裡には運慶作の韋駄天を安置し、
嘉祥二年(849)迄に悉成就慈覺大師が
草庵を結んで四十年後であった🛕

大師の後継慈圓律師の代に改め
天台宗補陀山観音寺と号し、
その後二八〇年間の詳細は不明で、
長承元年(1132)天台の覺源法師が
この寺の再興に努め、
補陀山長承院と改め、
その後時の人皇七十五代崇徳天皇の
勅願所となり院号を改め長承寺となる🛕








千手観音菩薩(3月/6月)








千手観世音菩薩説明書
(3月/6月)








千手観世音堂(3月/6月)








千手観音真言(3月/6月)








子安観音堂(3月/6月)








子安観音堂(3月/6月)








石碑群(3月)
然るに文治五年(1185)
藤原氏滅亡と共に衰微し
建武年中(1332〜1337)になり
時の領主葛西氏の一族平武治公の
帰依するところとなり、
三間四面の観音堂を再建し
寺領百町歩の寄進をうけたことにより
寺運隆昌に向う🛕

しかし天正十八年(1590)葛西氏が
小田原の陣に参戦しなかった理由で
豊臣秀吉に領地を没収され、
その余波で長承寺も次第に荒廃し
文録元年(1592)永明寺(葛西氏の菩提寺)
五世日峯天輪大和尚が
永明寺開山蘆月禪林大和尚を
長承寺に移して再興し、
従来の天台宗を曹洞宗に改め
山号も永明寺の山号を移して、
大白山長承寺(本尊は釈迦牟尼仏)とする🛕








境内(3月)








妙理堂(3月/6月)








沿革(3月/6月)








供養塔(6月)
その後曹洞宗大慈寺六世華嶽道春大和尚を
長承寺開山として迎え大慈寺の末寺となり、
以来寺運隆昌し法灯連綿として
絶ゆることなく現住職三十六世を数える🛕
(弘仁元年より安永三年迄九六五年である)
「安永三年三月風土記御用付書上控なり」
 
観音堂は三間(5.4メートル)
四面に四尺五寸(135センチ)の
濡れ縁をめぐらした御堂で、
建立は室町初期(1350)と伝えられている🛕

毎年四月十七日の例祭には
関東や福島方面からも参詣者が訪れ
祈祷会などが行われている🛕

 古碑 永明開山墓碑あり、
自然石で四一五年前のものである🛕

長承寺境内に「巳己」の碑があり
永仁二年(1294)町内供養碑中
最も古いものである🛕

経石=一石一経は観音堂の床下に天明、
天保の飢饉で亡くなった方への
供養の為に小石に写経したもの🛕

小石の数は一万一千以上あり、
非常に珍しい経石である🛕








鐘楼(6月)