最勝院
の御朱印


大日如来に縁があります








寺号標

12か寺の塔頭寺院を従え
藩の永世祈願所となった。

近世には僧録所として、
津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。 








山門

『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、
常陸国出身の弘信が、
堀越城下(現・弘前市堀越)に
堂宇を建立したことに始まる。








本堂

江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が
弘前城を築城したことに伴い、
慶長16年(1611年)、
城の鬼門(東北)に当った現在地より
北に3kmほど離れた田町に寺院を移転し、
弘前八幡宮の別当寺とされた。

明治時代の神仏分離令により
最勝院以外の11か寺は廃寺となり、
最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を
引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転。

なお、神岡山大圓寺は弘前市に隣接する
南津軽郡大鰐町に移転しているが、
市民からは今でも「大円寺」の俗称で
呼ばれているという。








五重塔

藩祖為信の津軽統一の過程で戦死した
敵味方の供養のために建立したといわれている。

従来、明暦2年(1656年)に着工し、
工事の中断と再開を経て
寛文7年(1667年)完成と伝えられていた。

しかし、平成3年9月に襲来した台風で
大きな被害を受け、建立から約330年にして
初めての全面解体修理が実施され、
その過程で初重の内法うちのり貫ぬきから
寛文4年(1664)8月の刻名が発見される。

塔の組立はこのころから開始されたものと
推定される。 

明治の指定説明で
「東北地方第一ノ美塔ナリ」とされ、
総高は31.2m。

屋根は宝形造、
軒は二軒ふたのき繁しげ垂木だるきで、
組物は各重とも和様三手先。

柱間は、各面中央間を扉とするほかは板壁で、
初重は正面のみ連子窓で三面に円形、
二・三重に格こう狭間ざま形、
四・五重に矩形の盲めくら連子れんじ型を
つくり変化をみせている。

また心柱しんばしらは角柱で、
二重目で止まっているという。








八坂神社

神社のすぐ南隣は五重塔で有名な最勝院
となっていて、弘前城の南側のやや高台に
鎮座しています。

御祭神 
須佐之男命
奇稲田姫命
草野姫命
菅原道真公 

例祭日 
旧六月十四日 

由緒 
当社はもともと大円寺別院、牛頭天王と称し、
旧津軽藩公代々藩主が悪疫封滅の祈願所として
尊崇篤かったという。

明治四年八坂神社と改称される、
八坂神社の社号に転じ、大円寺別当増田精一が
社人として奉仕せられた。

明治四年社殿を御造営 (氏子中一同) 
昭和二十一年九月二十四日社務所番人の
失火により全社殿を焼失せり、
昭和二十四年本殿、拝殿を造営し、
昭和二十五年社務所を新築現在に至る。

銅屋町・桶屋町・鍛治町・新鍛治町・
北川端町・南川端町、六ケ町会を氏子として、
六ケ町産土神として敬神されている。 

江戸時代は大円寺別院、
牛頭天王社だったようです。

天王の名称が明治政府の気に障った
のではないかといわれています。

京都の祇園社等と同様に、名称を変えられ、
御祭神も牛頭天王とその妻、
頗梨采女から須佐之男命と奇稲田姫命に
取り替えられています。

元々この地にあった大圓寺は大鰐町にあり、
当時無住だった高伯寺に、移転させられたとか。