弘前天満宮
の御朱印








御祭神

菅原道真朝臣命を祀るが、
神体は下述する大行院において代神として
祀られていた天満宮のものに
同院本尊の文珠菩薩と、
種里城に拠った大浦家の先祖が祀っていた
舘神「天神さま」を併せ祀るという。








社号標&鳥居⛩️

文殊菩薩と縁があります








拝殿

前身は長永寺松峰山大行院という
修験道当山派の寺院で、『弘藩明治一統誌』
では天満宮自体は元禄2年(1689年)に
植田村(現弘前市愛宕)の橋雲寺に
弘前藩4代藩主津軽信政の生母久祥院によって
寄進されたのが創まりで、
明治3年(1870年)に大行院が廃されるに際して
橋雲寺から遷したもので、一説には
大行院廃寺に伴い同院境内に鎮座した
若木神社を天満宮としたものともされているが、
慶長15年(1610年)に弘前城に遷され、
 更に信政の命で橋雲寺に遷された
天満宮であるとも伝えられる。

なお、大行院は藩政時代に当山派
または大峰派の津軽藩における司頭
(藩内同派寺院の支配頭)で
後に羽黒派司頭も兼ねていたが、
当神社社伝に拠れば菅原家の未裔珍重丸から
12代目の後胤にあたる永尊が
慶長3年 (1598年)に津軽為信(後の初代弘前藩主)
の招きに応じて京から津軽に来住して
大根子村(現田舎館村大根子)に祈願所として
仮堂を開創したのが創めであって、
翌4年2月に八幡村(現弘前市八幡町)へ
移転すると共に寺禄30石を与えられ、
寛永2年(1625年)に新寺町へ移転後、
宝暦4年(1754年)に報恩寺の造営に際して
津軽藩薬草院のあった現在地に
三遷したものといい、或いは慶長17年(1612年)に
開創されたものともいう。

上述の様に『弘藩明治一統誌』は
明治3年に大行院が廃寺となって
天満宮となったとしているが、
『新選陸奥国誌』(明治9年)には
明治4年(1871年)に大行院が修験道を廃して
神道専一の菅原神社に変じ、
時の院主宇庭光海(第10代院主)は還俗して
祠掌(後の宮司に相当)に転じ、
相殿に少彦名神を祀る若木神社を配したとし、
明治9年段階では「本社は造営中に付、
祭神相殿神共に祠務か座布に遷」
されていたとしている。








境内から撮影した岩木山🗻

津軽富士と呼ばれるだけの偉大さ、
優雅さがありますね🏔