櫻山神社
の御朱印

八百年を越える南部家を興し、
北東北の平安に努めた
「永続神」南部光行公は
源義光を祖とする甲斐源氏の一族で
甲斐国巨摩郡に生まれ、
父である加賀美次郎遠光より
同郡の南部郷を与えられて移り住み、
氏を「南部」と称えました。
それからは、南部郷の地頭職として
馬産に励んでいたと思われますが、
父遠光が頼朝の旗揚げに
加わってからは光行公もまた
頼朝に仕えるようになりました。 
文治5年(1184)には源頼朝の奥州征伐に
父と共に従軍したことが『吾妻鏡』に見え、
その功により甲斐国南部郷に加えて
新たに糠部五郡を
拝領したと言われています。








ユニークな南部武士のなんぶくん😊

盛岡藩初代・南部家二十六代、
南部信直公は戦国の世を
英知・勇気・決断を
もって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた
「開拓神」南部家一族の石川高信の子として
天文15年(1546)岩手郡の一方井館にて誕生、
後に三戸の田子城に移り
田子九郎晴直と称しました。
やがて南部宗家に
家督をめぐる争いが起きましたが、
北信愛の協力によって信直公が家督を
相続することができました。
その後、小田原に参陣を果たし、
豊臣秀吉から南部七郡を安堵されました。
ちなみに南部七郡とは
糠部、鹿角、岩手、閉伊、紫波、稗貫、和賀
であると考えられています。
かねてより対立が続いていた
九戸政実の征伐に成功した後、
信直公は浅野長政や蒲生氏郷から
「不来方(現在の盛岡)に本城を置くよう」
に勧められたと言われます。 
慶長4年(1599)に三戸城で没しました。
行年55歳、
波乱に明け暮れた生涯を閉じました。
信直公は、豊臣秀吉から南部七郡の安堵状
「南部内七郡事大膳大夫可任覚悟事」
(なんぶうちしちぐんのこと
だいぜんのだいぶかくごにまかすべきこと)
を受け、本拠とした盛岡に築城を
開始するなど盛岡藩の基礎を固め、
南部家を近世大名に押し上げた
南部家中興の祖であります。








向鶴の家紋、素敵な紋ですよね

盛岡藩二代・南部家二十七代、
南部利直公は城を築き街を整え、
農産業の進行と五穀豊穣、
領民安堵を計った「安泰神」
信直公の長子として
天正4年(1576)三戸の田子館で誕生。
天正18年(1590)には、
父信直と小田原参陣を果たし、
その陣中で元服を済ませました。
この時に烏帽子親となった前田利家より
「利」の一字を拝領して利直と名乗りました。
利直公は九戸政実の乱平定後、
信直公より盛岡城の築城を託されます。
慶長2年(1597)3月に
盛岡城の鎌始め(起工式)を行い、
「不来方」という地名を
盛る岡の意味を込めて
「盛岡」と改称しました。
公自ら現場で工事の指揮を執った
とも言われており、慶長4年(1599)に
本丸などが完成したようです。
利直公は関ヶ原の戦に乗じた
和賀忠親の旧領回復の一揆を
鎮圧することに成功すると共に、
思い切った家臣団の再編成に
取り組み、さらには検地を実施して
家臣団はすべて城下に住み、
石高に応じた知行地を
与えられるようになりました。
寛永9年(1632)8月、
江戸の桜田邸にて57歳の生涯を終えました。
利直公は、鋭敏かつ機略をもって
盛岡城の築城と城下町の建設、
領内の経営に力量を発揮し、
英知に優れて信望も厚かったと伝えられます。








櫻山神社入口

盛岡城跡のすぐ近くです🏯🚶

盛岡藩十一代・南部家三十六代、
南部利敬公は法律と消防組を整え、
学問を奨励し、
藩校教育を推進した「学問神」
天明2年(1782)九代藩主・南部利正公の
次男として出生、3歳で家督を相続しました。
利敬公が幼年の藩主であった時期は、
天明の大飢饉の揺り返しで不作が続いて、
藩財政は極度に窮迫しました。
利敬公は入部後に倹約令を発し、
家老政治を排して
自ら政務を執られました。 
利敬公の任期を通じて
最大の課題になったのは、
北地警衛と沿岸の防備でした。
盛岡藩も幕府からの要請によって出兵し
警備に当たりました。
蝦夷地の警備が評価されて
文化5年(1808)に盛岡藩は
10万石から20万石へと昇格を果たし、
利敬公は侍従となられました。
利敬公は、
上衆小路にお稽古場(学校)を設け
藩学の基礎を作りました。
また町火消しを創設し、
城下の要所に火の見梯子を立て、
半鐘を付けたことも特筆されます。
さらに訴訟判例「文化律」を
制定すると共に民事裁判所に
相当する公事方評定所を設置した。
文政3年(1820)盛岡城で没し、享年は39歳。
治国は歴代藩主最長となる37年に及びました。
利敬公は親裁によって
藩役人の腐敗を一掃して
藩財政を立て直し、
盛岡藩の安定に尽力しました。
明治41年には北地警衛の功績により
従三位を追賜されています。








拝殿

江戸時代中期の寛延2年(1749年)、
盛岡藩第八代・南部利視により
盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、
盛岡城内淡路丸に神殿を建立、
同年9月26日、その神霊を勧請して
「淡路丸大明神」と奉ったのに始まる⛩️
盛岡藩第十一代・利敬が
文化9年(1812年)8月13日に
「櫻山大明神」と改称⛩️
その後、利敬は同15年(1818年)4月に
南部家初代・光行を合祀した。
明治時代、
盛岡城が明治政府に接収された後、
明治4年(1871年)9月、御神体を
岩手郡加賀野村妙泉寺山(現・盛岡市)に
仮遷座、同10年(1877年)5月20日に
盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に
新社殿を造営し再遷座した。
明治14年(1881年)1月、県社に列格。
明治23年(1890年)、
旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって
払い下げられたことを契機に、
旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、
旧城地への遷座の機運が盛り上がり、
盛岡城旧三の丸・鳩森下曲輪跡に
明治32年(1899年)神社敷地を造成、
今日にみられる
本殿、拝殿、神門が建てられた。
大正元年(1912年)10月に
盛岡藩第三代・利直、十一代・利敬の霊を
合祀して永く郷土守護の神と崇め奉った。
計4柱の南部家の神霊を
合祀して現在に至る。








長寿院亀之助
櫻山神社境内入口にある亀さんの甲羅を
亀の子束子でこすって健康と長寿を願う。

🐢ひとこすり三年、          
🐢🐢ふたこすり六年、     
🐢🐢🐢みこすり十年延命








烏帽子岩

盛岡城築城時この地を掘り下げた時に
突出した大岩が出てきて、
以来様様な神事が行われ
南部藩盛岡の「お守り岩」として
今日まで崇拝されているとの事。








盛岡城跡公園の美しい石垣、
櫻山神社の烏帽子岩、
岩手の由来とされる鬼の手形で
有名な三ツ石神社の石など、
盛岡には石にまつわる名所多いですね😄