古四王神社
の御朱印








社号標と鳥居⛩️

御祭神
大彦命
武甕槌神








拝殿

社伝では、崇神天皇の時代、
四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため
北陸道に派遣された折、
北門の鎮護のために
武甕槌神を齶田浦神として祀り、
次いで斉明天皇の時代、
阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、
自らの祖である大彦命を合祀し、
越王神社(古四王神社)として創建された⛩️

齶田浦神」の名は日本書紀に見え、
一説では
蝦夷が信仰した地主神または海洋神
と推定し、
齶田」を「秋田」の古名とする⛩️

当神社は延喜式神名帳には記載がないが、
『日本三代実録卷第十』
貞観7年2月27日(865年3月28日)条に
「出羽国正六位上城輪神。高泉神並従五位下」
との記述があり、
このうち「高泉神」について
菅江真澄は
古四王神社のことであると書いている🧐

高泉神である明確な証拠は
他に存在しないが、
新潟・山形・秋田を中心に、
北陸・東北地方の各地に
胡四王、古四王、巨四王、
小四王、高志王、越王、腰王、小姓等
という標記の神社が多数分布することから、
越の国を中心に北方に広がった
阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が
同一視されたものとして、
かなり古くから信仰された神であろうと
推察する意見がある🧐

なお、伝説の域を出ないが、
坂上田村麻呂が
802年(延暦21年)の蝦夷討伐に際し、
戦勝祈願をしたと伝えられている
田村神社が境内に存在する⛩️

同地は移転後の出羽柵(後に秋田城)
の跡地に近く、
城の守りとして創建されたと見られる
四天王寺と習合し、
中世を通じて古四王大権現として崇敬され、
安東氏の寄進も受けている⛩️

江戸時代に入り、
佐竹氏が秋田地方に入部した後も
社領を寄進され、
最終的には60石となった。
この頃より近隣住民からは、
単なる北方鎮護の武神としてではなく、
豊作や眼病に霊験灼かと
広く崇敬されている🛐

なお、1818年(文政元年)刊行の
曲亭馬琴の随筆
「玄同放言」中にも、
古四王社の挿絵がある🧐

近代社格制度の下で
最初は郷社に指定されたが、
1873年(明治6年)1月に一旦取り消され、
同年10月に再指定された🧐

1876年(明治9年)2月24日に県社へ昇格⛩️

1882年(明治15年)には国幣小社に列せられ、
以降秋田県内の神社では
最も高い社格となった⛩️