9月6日(黒の日)に考える。「黒=悪」という使い方の是非。 | あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

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  2013年58歳の春に「うつ病」でダウン。治療に4年半。気づくと還暦を過ぎました。
  66歳になった2020年夏に「ああ、あと猫の寿命ぐらい生きるのか」と覚悟。世の中すべて如露亦如電です。

 

 写真は1986年5月に横須賀の「どぶ板横町」辺りで写したものです。米軍兵士やその家族相手の似顔絵屋さん。モノクロ写真は情報をストレートに伝える良さがあります。モノクロとは「一つの色」ということ。単色。墨絵などはモノクロ世界の代表格です。この場合は「黒」が唯一の「色」? 

 

 9月6日は「クロの日」とか。私の好きなラジオでは、昨日から「クロ」をテーマにする番組が多いようです。

 クロ=黒。玄人とか黒山の人だかりとか、黒い瞳の美しい人とか・・・、「黒」が客観的とか肯定的に使われる限りは、問題がないのですが。黒=悪という使用法については、論議があります。確かに日本語では黒=暗いのイメージからか? 白がよくて黒が悪いとされ、黒星、腹黒い人など、ネガティブなイメージをもつことがあります。それはそれで、島国日本の風土にふさわしく成立してきた言葉なので、歴史的な用法については簡単に否定できません。

 しかし、いま、さまざまな国や地域の人々が交流する社会になって、またコロナ問題をきっかけとして肌の色によって差別と対立、社会的格差が問題になっているとき、日本語の用法も考える必要があると思います。

 私の社会活動経験からすると、悪質な会社で働いている、アフリカ系の黒い肌の人に対して「あなたの会社はブラックだから」などとは言えません。違法行為を繰り返すものをさして使われる「ブラック○○」の使用法は、改めるべき時に来ているといえます。黒=悪、黒=犯罪のイメージは人種差別を肯定・固定化するからです。

 

 たとえば、「ブラックジャーナリズム」、という言葉、これはもともと「イエローペーパー」「イエロージャーナリズム」という英米由来の言葉のようですが、「黄色人種国家」(アジア人は黄色くないのですが)である日本では、この言葉は「赤新聞」と言い換えられ、それは「赤=左翼をおとしめる」意味合いがあるので、やがて「ブラックジャーナリズム」に落ち着きました。

 労働組合に入らないことを条件とする違法な契約(日本では憲法28条に抵触する)を、翻訳した言葉として「黄犬契約」といいますが、これも日本ではぴんとこないのであまり使われなくなっています。日本人は差別的に「黄色」と言われることに抵抗感があり、ネガティブな用法としての「黄色」を排除する傾向があるようです。

 

 最近ではヒトゲノムの解析などで、人類の最も新しいタイプのクロマニヨン人について、その純粋なタイプの肌の色はの肌はアフリカ系の人の色とされるようになりました。これはブラック・イズ・ビューティフルな旧来の知識の大きな転換です(少し前まではクロマニオン人の肌の色は、アングロサクソン的に白いとされ、イラストや模型の色は「白」でした)。

 

 ところで「黒」は少し高級なイメージも持ちます。私がお酒を飲み始めたころ「ジョニ黒」は手が届かない存在でした(いまは2000+α円程度で手に入るけど)。お酒は「赤」や「「白」より「黒」のほうが上高級感があるようです。

 今日の晩酌は“黒ホッピー」にしようかな。値段が同じでも、なんとなく高級感がある?

 

 「黒」のイメージと使い方に関して、9月6日(クロの日)の朝に考えてみました。