昨年末に出た神保彰を特集したムック本『ドラマー神保彰 「世界が尊敬する日本人100人に選ばれた男」』のなかに掲載された角松敏生のインタビューにおいて、カシオペアのアルバム『EYES OF THE MIND』を愛聴盤だとコメントしていた。


これは以前から挙げていて、いまから二十五年前にもなるが、1986年4月に神保彰と櫻井哲夫が同時期にそれぞれ初のソロアルバムを出した際、プロモーションでふたりで出演した角松敏生のラジオ番組「FMライトアップタウン」においても、やはり『EYES OF THE MIND』を愛聴盤だと話している。


角松敏生にとって『EYES OF THE MIND』の魅力とは何なのか?、今回はそのことを絡めながら、1981年発表の通算5枚目となったアルバム『EYES OF THE MIND』について紹介していきたい。



茶屋町吾郎の趣味シュミtapestry
“心の眼”を表したジャケット。


1980年春から夏にかけて、その年の4月に発表したばかりのカシオペアの通算3作目となったアルバム『THUNDER LIVE』が、音楽誌『ADLiB』の連載企画「ブラインド・フォールド・テスト」で話題となっていた。この企画は、来日した海外のフュージョン系のミュージシャンに、日本のフュージョン系のアルバムのなかの曲をアーティスト名や制作された背景(たとえばデビュー盤とかギタリストのソロアルバム)を告げずに、音だけを聴いてもらい率直な感想を述べてもらうもので、たいていは「××というミュージシャンの模倣に聞こえる」とか辛辣なものばかりのなか、毎回『THUNDER LIVE』は絶賛をあびる。


スティーブ・ガッドと二分する人気ドラマー、ハービー・メイソンもこの連載企画に参加して『THUNDER LIVE』について賛辞を送ったのだが、他のミュージシャンとは違ったことがあった。じつは「ブラインド・フォールド・テスト」の前に『THUNDER LIVE』を聴いていて、記事を読み解くにカシオペアの存在をかなり知っていたようなのである。


前回の記事で触れてもいることではあるが、ハービー・メイソンとカシオペアの所属するアルファ・レコードは関係を持っていた。1978年にハービー・メイスンのプロデュースで大村憲司のロス録音のアルバム『KENJI SHOCK』を制作し、1979年には朝比奈マリア(雪村いづみの実娘で、当時ハーフタレントとして活動)のアルバム『MARIA』にも編曲で参加している。


アルファ・レコードがハービー・メイソンにカシオペアのアルバムを提供していたのはあきらかなのだが、カシオペアを委ねようと考えてのことか、それとも目論見などなく、たんなるサンプルの一つとしたのに過ぎなかったのかわからない。この時点ではカシオペアとハービーは面識はおろかコンタクトも取ったこともなく、メンバーらはハービーが絶賛したこと、そして聴いていたことに、ただただ驚くだけだったという。


カシオペアは1980年夏から『THUNDER LIVE』に次ぐアルバムで、全曲新曲によるスタジオ収録のアルバム『MAKE UP CITY』の制作に入る。その作品についてはまた改めて取り上げてみることにするが、併行してある計画が進んでいた。


カシオペアの所属するアルファ・レコードは、同じく所属するYMOの成功とライセンスを獲得したA&Mレコードのアーティストらの日本市場の好評を後押しに、全盛期である1980年にロスにアルファ・アメリカを設立。ワールドワイドな展開を目指した。その日本発のアーティストの一組にカシオペアが選ばれ、アメリカ市場向けに作品を制作することになった。


そこで白羽の矢が立ったのがアルファ・レコードと関係を持っていたハービー・メイソンなのである。ハービーはドラマーだけではなく、コンポーザーでありアレンジャーでもあったし、セルフ・プロデュースによるリーダー・アルバム、そしてシーウィンドのデビュー&セカンドアルバムもプロデュースするなど幅広い活動を行っていた。1978年、アルファ・レコードはスタジオ&セッション・ミュージシャンとして活躍していた大村憲司のギター・インスト・アルバム『KENJI SHOCK』のプロデュースを依頼する。



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大村の残した4枚のリーダー・アルバムのなかで生前唯一CD化されず、2000年になって初CD化。


当時の日本のフュージョン・シーンのアルバム制作における流行りの手法で、単身でアメリカに乗り込んで本場の一流ミュージシャンに囲まれてレコーディングした“ありがち”な作品のひとつではあったものの、『KENJI SHOCK』のその完成度たるや当時から別格であった。大村憲司のプレイもあったが、やはりハービーの手腕が冴えに冴えていたことだろう。アルファレコードの社長だった村井邦彦は、東芝EMIでリーダー・アルバム『FIRST STEP』を出したばかりの大村憲司を自分のキモ入りで引っ張ってきて、目を付けていたハービー・メイソンがプロデュースしたこのアルバムがよほど好きだったようで、まだYMOがブレイクする前の混沌としていた状況下の細野晴臣に「一緒に聴こう!」と誘ったエピソードがあるくらいだ。


村井邦彦社長自らがハービーを気に入っていて、そのハービーがカシオペアを気に入っていた。当時のカシオペアもまたハービーを殿上人のように信奉していた。カシオペアがハービーのプロデュースを受けることにノリ気になったのは言うまでもない。とくにほんの一年前まで一般人だった神保彰、慶応大学4年生で優秀な成績だっただけに就職する道も心のどこかにあったらしいが、憧れの海外録音で、そこに憧れのハービーを迎えるプロジェクトに、これで就職活動をすっぱり諦めた(笑)。


1980年11月21日、カシオペアは4枚目となるアルバム『MAKE UP CITY』をリリースし、その前日に発売記念コンサートを日本青年館で開催。そして翌日はプリズム、スクエアと競演した電通大の、一日置いて23日は群馬大の、24日は櫻井・神保がまだ在籍していた慶応大学の文化祭のライブで締めて、ハービーの待つロスへと渡米していく。


カシオペアはデビューから休止するまで25年以上も活動していただけあって膨大な記録写真や宣伝材料用の写真が残されている。自分はその整理を任されていて、いろいろ拝見しているなかで、このロスでの『EYES OF THE MIND』レコーディングにおけるものは、とりわけ枚数が多い。なんと成田空港の出発ロビーで家族ら見送り組と一緒に列んで撮ったものまであるのだ(笑)。


このロスへの渡航が海外旅行初めてというのがほとんどのカシオペアのメンバーと当時のスタッフ。だから、どこに行くのにも団体行動でまるで修学旅行のように動いていたとか。写真からもその状況が伺える。しかし、どの写真も営業用の笑顔なんかはなく、心から海外旅行を楽しんでいる顔が写っている。当時、大卒初任給が十万円そこそこだけど、1ドル=200円もしていた時代。日本人にとって海外旅行はすごい贅沢だった。仕事とはいえ、渡航費用と滞在費用の全てはアルファ・レコード持ちで出掛けられたのだから浮かれるのは当たり前というもの。


おそらくカシオペアのメンバーらはこのロス録音を軽い気持ちで考えていたのではなかろうか。デビュー2年目、ビッグヒットがまだ出ていなく、日本全国ツアーもしていない段階でのアメリカ進出なんて狐につままれたかんじだったろうし、憧れのハービーやボブ・ジェームスに囲まれて和気藹々と、それに陽気な気候のもと、その空気感で日本でやるのと音が変わったり、場のフィーリングで良いフレーズが弾けるかな程度に思っていたに違いない。しかし、待っていたのはいままでやってきたことを否定されるようなハービーによる楽器クリニック。そして持ち込んだ楽曲の否応ない改変を強いられ、彼らが提供してきた掴み所のないかんじの楽曲のレコーディングもこなさなければならなかった。


『EYES OF THE MIND』は、カシオペア・ファンのなかで評価が分かれる作品であろうかと思う。


たしかに、カシオペアの音楽性、とくに奏法の変化が遂げられてグルーヴ感というものを産み出し、その後の活動においてはプラス面に働いた。しかし、作品としての音楽性は当時のカシオペアが持っているものと懸け離れており、制作段階からジレンマを抱えることにもなった。メンバーである向谷実自身も著書『フュージョン狂時代』で、ハービーのやり方にカシオペアが飲み込まれたことを記しているばかりでなく、はっきりと作品としての『EYES OF THE MIND』も酷評している。また、当時の音楽誌の読者投稿欄でもファンによる『EYES OF THE MIND』の評価は著しくないものばかりである。


カシオペアは4人で演奏しているとは思わせない音の厚み、いわばマジックのような野呂一生によるアレンジと4人全員が目立つプレイが信条であった。正確無比で千手観音のような神保彰の加入で可能になったさらなる複雑なアレンジ、そしてエフェクターやシンセの大量導入で彩りある音で埋め尽くされたアルバム『MAKE UP CITY』は、ファンに歓迎されたことは当然の結果だった。しかし、『EYES OF THE MIND』はそれとは対極にある音だ。“シンプル”なアレンジ、装飾的な音を排して聴きやすさを目指した。


ハービーはなぜこのような音にしたのだろうか?


ハービーは先述のブラインド・フォールド・テストの記事で『THUNDER LIVE』のカシオペアを評して、ウェザーリポートを聴く層には入っていける可能性があるものの、アメリカの一般聴衆にはウケないことを示唆していた。それは“シンプル”じゃないと、音楽セールスにおいて影響力のあるラジオでは取り上げてくれないと理由を付けている。



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1983年、西海岸のFMでカシオペアが掛かっているのをリアルに再現したDJ入りのベスト企画盤。

ポータブルステレオやカーステレオでのユースを捉えて、カセットテープのみで販売された。



ハービーの『EYES OF THE MIND』におけるプロデュースはまさにその通りになされた。日本市場のみを相手に海外録音ということを話題性にして箔が付けられたものではなく、アメリカ市場で本気で商売するものとして制作されたのだ。


結果はどうだったのだろうか?


結果的には音楽性をねじ曲げられた『EYES OF THE MIND』よりも、次作品として発売のカシオペアだけで純粋に作った『MAKE UP CITY』のほうが売れて、さらにグラミー賞にノミネートされるまでに至った。ただ、『EYES OF THE MIND』はまったく売れなかったわけではなく一定のセールスを上げているし、見方としては、それによって『MAKE UP CITY』のセールス増に助走を付けていたのはたしかだろう。


アメリカ市場に本気で挑み、成果を上げてきたカシオペアだったが、これ以降途絶える。その顛末はアルファ・アメリカが資金調達で失敗して撤退せざるを得なかったからだ。詳細は村井邦彦の下記の回想インタビューで知ることが出来る。


Musicman's RELAY 第88回 村井邦彦

http://www.musicman-net.com/relay/88-7.html


だけど、ハービーとの出会い、そして『EYES OF THE MIND』はカシオペアに莫大な結果をもたらす。


日本市場においても『EYES OF THE MIND』は売れたし、枚数的にもオリコンの順位的にも前作『MAKE UP CITY』を上回ることが適った(もちろん『MAKE UP CITY』の好評がもたらしたことも効いているが)。さらに、先行して発売されたアメリカ発売盤が輸入レコードとして国内に入ってきてそちらも上々だったとか。


西海岸のフュージョンと遜色ない『EYES OF THE MIND』は新たなカシオペアファン層を増やす。それまでアメリカの模倣ばかりと日本のフュージョンを聴かなかった層にも、“ハービー・メイソンのプロデュース”、“ボブ・ジェームスの参加”という触れ込みが目に留まり、聴いてみると実際イイし、過去の作品も粒ぞろいで興味を持てる内容だった。


当時二十歳の角松敏生もそんな一人だったはず。角松敏生は1960年生まれで、氏の十代後半はちょうど70年代後半となる。その頃にフュージョンのムーブメントがアメリカの東西海岸から起こり、日本においては1978年頃からいわゆるフュージョン・ブームが到来して80年代初めまでそれが続いた。カシオペアは1979年5月、まさにフュージョン・ブームの渦中でデビュー。一方、角松敏生は1981年6月にデビューするのだが、氏にとってのそれまでの音楽的影響は二つの流れが来ている。ひとつは、はっぴぃえんど由来の日本のロック。もうひとつが、アメリカの東西海岸のフュージョンだった。


70年代後半、絶品の東西海岸のフュージョンを聴いてきた層の多くはそれに留まることはなく、70年代末から80年代始めになると、当時流行りのファンクミュージックやAORに移行していく。そういった層にも自然と浸透していったのが、「スリル・スピード・テクニック」の“ど”フュージョンではなく、ハービーの信条とするファンクミュージックの精神とAOR的な空間アプローチが注がれた『EYES OF THE MIND』だったのだ。


『EYES OF THE MIND』を出した1981年春頃、フュージョンブームは曲がり角に来ていて、以降“ブーム”は衰退していくのだが、カシオペアはそれを脇目に上昇気流に乗っていく。