雪国のゆううつなブログを読む | 38度線の北側でのできごと

38度線の北側でのできごと

38度線の北側の国でのお話を書きます

 商材というのは余りに失礼か。でも売り込みのブログなのである。

 

 売るのはモノではなく自分。自分の魅力を知らしめ、決して少なくない金を払ってもらう。時間を共有する。

 

 小道具として使えるのはスマホで撮った写真。文字数は200字以内。

 

 こうして整理してみると落語の小噺か枕のようにも思えてくる。新年の寄席がまさにそれで、普段よりもぎゅっとひとりあたりの時間は短く、新年のあいさつもそこそこに話もさわりだけで終わるのがほとんど。色物と呼ばれる漫才やマジックの演者が、落語家よりもむしろ生き生きとしていて面白い。

 

 ぼくが最近心惹かれ読んでいるのは、訪れることのないはるかな夜の街で働く女性のブログで、年齢もまた容姿も決してトップクラスではなく、どちらかというと下から数えた方がというレベルで、店からのアピール文もとってつけたような感じのもの。

 

 その女性の書く文章も写真も実に上手くない。冴えない。つまりは魅力を感じないのである。

 

 辻原登さんの「塩山再訪」のワンシーンを想いだす。その彼女の文章を自己アピール力に欠けるとか、改善点をあげ、あるいは難癖をつけることもできるが、それ以前に行間から漂ってくる暗澹たる空気が手遅れ感があるというか、もはや彼女にしか書けない文章になっている。

 

 ほかの女性の書くブログはどこか溌溂と、そして魅力がどこかに光っていて、年相応の女性の視点があり、興味を引くような写真だったり日常の生活の風景が描かれている。楽しげな時間を(それが演出だとしても)感じるのだ。

 

 日本海沿いの田舎町の風景を想像してみる。板壁の家の並ぶ路地から見える灰色の冬の日本海と空。道端の根雪。海鳴りの音が聞こえる。こういう時に下戸なのが寂しい。畏友Mなら、どこかふらりと入った居酒屋で、日本海の魚と日本酒に舌鼓を打つのだろう。

 

 実話誌の中でのみの知識として、体験として寡聞にして聞かないが、夜の街はコロナで四苦八苦という。他の仕事で稼げないから美人が夜の街に流れてくるぞとラジオ番組ではっちゃけたお笑い芸人が、不謹慎と叩かれていた。ただでさえ競争率が高くなった夜の店で少ない客を待つ。その合間にブログを書き、湿っぽい部屋でまた、待つ。

 

 時間はなかなか流れない。でも瞬間的にはそう思えても、気づいたときには平等に時は流れている。重ねた自分の年齢が一瞬分からなくなり、気がついたときにはとんでもない年齢になっている。

 

 自分が選ばれぬ。ぼくも今日そんな経験をした。

 

 さてそんな日の夜は、その哀しみを誰かと話してみたいのだけど、出来れば知り合いではない、居酒屋のカウンターで偶然横に座ったような人とこんこんと話したい。

 

 選ばれぬ者の気持ちと、なんで今ここにこうしているのだろうという、ふがいなさと不条理がないまぜになった気持ちを、整理しないことばで、口をつくままに話してみたい。

 

 ねえこれからどうしようか。死んでしまおうか。そのことばを海鳴りの音は消せるのだろうか。