今はまさしく最後の審判の時‼️ | グッドムーンのブログ

グッドムーンのブログ

真理を伝えてゆくことが私のミッションです
そして、良質な水素ガス吸入器を販売、アフターフォローをしています ご興味のある方はご連絡ください
goodmoon51@yahoo.ne.jp
篠崎携帯08014440018
水素と健康ブログ https://ameblo.jp/hamony51/
Facebookは篠崎朗で登録



あの人は、とあの人間は、とでは響きがまったく違うように、人とは霊が止まった、宿った心の状態を言うのです。
つまり霊とは神、神霊のことなので、あの神様は、と言っているのと同じなのです。

一方の人間とは、神と幽界の生物(不良霊、感情霊)の間という意味であり、今の私たちはまさしく人間そのものなのです(苦笑)

今の人間界(肉体界)には、神に近い愛深い人間と、愛薄い動物性に近い人間がいます。その中間もあり、様々な階層に分かれています。

今の人間界が混沌としているのは、どの階層の人間が多いのか?また、少数でも力を占めているかで察しが付くと思います。

しかし、これから厳しい試練(コロナ禍など)を乗り越え、どの階層の人間も立派な魂になった人(霊止=神)に進化して行くのです。

最後の審判とは?私たちの境地が立派(神そのもの)になり、守護神から及第点、合格💯を戴き、見事アセンション(次元上昇)に成功するか、否かなのです。

これからの私たち人間のひとり一人の変化、成長を神々は、期待を込めて見守っておられます。


最後の審判とは

(問)五井先生は、キリスト教の言う、最後の審判をどのように考えていらっしゃいますか?
 
最後の審判というのは、来世に大混乱が起こって、神に従う者には栄光が輝く。そして地上と天国が出来る、というのだそうですが、

やはり今は、人類が大きな変化を遂げた時で、今までは、神の子と動物性とが交ざっている人間が、本当に神の子人間にするためには、一つの大きな障害を越えなければならない。

それには、今までのやり方、思い方、いわゆる業を一掃しなければならない

その業が一掃される時が最後の審判なのです。
 
そしてキリストが降りてくる。キリストが降りてくるというのは、何もイエスキリストが降りてくるというわけではなく、真理が開いて、という意味です。

ですから、みんなが真理がわかって、神性が開いて、業がいっぺんに取れるというわけです。
 
業がはがれてゆく。それが形の上に現われてくれば、大戦争になるかもしれない。

あるいは天変地変になるかもしれない。地球人類の三分の二は死んでしまうかもしれない。

そういう様相は幽界にあるわけです。

それを地球界に第三次対戦と現われないように、天変地変がないように、
少しずつでもよいから浄めて、最も軽く、人間に怪我を少なくするというために、我々の世界平和の祈りが生まれているんです。
 
ですから皆さんが祈りを広め、そして祈りを各自が深めることによって、
戦争も防がれ、天変地異も防がれるのです。

最後の審判はないのではなく、あるようになっている。

あるようになっているけれども、世界平和の祈りで防げるようになっている。
 
ですから、一生懸命世界平和の祈りをするということは、自分のためにもなっているし、世界のためにもなっている。

地球が亡びたら自分もなくなってしまうんですから。そういう意味でも、世界平和の祈りは、素晴らしい菩薩行なのです。 

そこで一人でも多くの人に広めたいと、切実に思うわけです。
※『人類の変換する時』―最後の審判とは―(五井先生・昭和40年)
 

キリスト教では、最後の審判ということをよく言います。

キリスト教ばかりではなく、地球の最後ということは、あらゆる宗教で言っています。

それはどういうことかというと、今までの地球人類の在り方が変わるということです。

仏教では「劫」といいますが、一つの周期がありまして、その最後の「劫」には、お釈迦さまやイエスさんが生まれた頃もみな入っているわけで、その「劫」の終わりにかけて地球と人類が大変貌する時期があるわけです。 

それを最後の審判という。その後に新しい人類が誕生する。 

といっても今までの人類が、全部死んでしまって、全然形の変わったのが出る、というのではなくて、今までの地球人類の考え方、人生観、宇宙観というものがまるっきり変わってしまう。
 
もっと言い換えれば、肉体波動が霊妙な波動に変わるという、そういう時代が来るのです。

必ず来るのです。

来る前に、どうしても一つの関門を通らなければならない。

それには古い皮を脱皮しなければならない。

今までの生き方を変えなければならない。
 
そういう時期が今なんです。
 
最後の審判というのは、いずれ消えてゆく姿、悪いものは全部消えて行ってしまって、本心が現われてくるということーそれが

最後の審判、なのです。

その代わり、本心が現われてくる時は苦しみが多いでしょう。
 
骨が折れたのを治すためには、元に戻すのに痛い、というのと同じように、ちゃんと道に乗せる苦しみはあるけれど、最後はすっかり救われの世界が形の世界に現われてくる。ということです。
 
最後の審判として、人類の三分の二が滅びて、三分の一が立派な人類になるか、半分だけ残って、半分滅びるか。

三分の一が滅びて三分の二が残るか。あるいは十分の一が滅びて十分の一が残るのか。

あるいは滅びなくて済むのか。それはこれからの人類の生き方によって決まるわけです。 

 最後の審判というものを、大過なく、災い少なく、人類の痛み少なく乗り切ってゆこうというために、神々が、いろんな人を天下しているのです。

お釈迦さまもイエスさんもそうなんだし、いろんな聖者が出ています。 

 私には「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という方法と、
「宇宙子波動生命物理学」という科学を、神さまが授けてくれているわけです。 

その運動を続け、その科学を完成することによって、地球人類が苦しみなく乗り越えて、新しい人類として生まれ変わってゆく、

新しい人類に成長してゆく、新しい波動の世界に住み慣れてゆく、ということになるわけだし、そうさせなければならない、と思っているわけです。 
 
ですから私どもの提唱している「祈りによる世界平和運動」というものは、最後の審判というものを、願わくば無傷で、誰も苦しませないで越えてゆきたい、そうしなければならないという運動なのです。

皆さんの一人一人の使命、天命というのは大変重要なわけです。 
 
ところがなかなか重要というように考えられない。
日常生活のゴタゴタ、目の前に迫っている枝葉のことが大事なような気がして、永遠の生命を体得する、いわゆる新しい、優れた人類に生まれ変わるというようなことは、頭にはないわけです。 
 
大体がこの世の中の、現われている出来事をうまく処理できればいい、というような考えで宗教に入る、あるいはこの世界平和運動に入る、というくらいなんです。

そしてだんだん判ってきた人や、熱心な人が本当に身を挺して、
「祈りによる世界平和運動」をやっている、という形なんです。

私はそれでもいいと思うのです。 

一般の人が家庭をそのままやっていて、現われてくる小さい細かい出来事のことを、うまく処理するために祈りをしている、ということでもいいと思うのです。祈りの筋は同じですから。 

 「世界人類が平和でありますように」という時には、救世の大光明に入ったことになります。
 
やがては、本当のことがわかってくると、

「ああ自分はこの世にとって大事なものなんだな。

自分はつまらなさそうな人間に見えるけれども、実はつまらない人間ではなくて、世界を本当に平和にするための、天使のひとりなんだ、菩薩の一人だったんだ」ということが、自覚されてくるわけなのです。
 
肉体人間としての自分が菩薩でないかもしれない。

でも、世界平和の祈りをすることによって、当たり前の凡夫が、一般大衆が、菩薩に変わってゆく、天使に変貌してゆくわけです。

言い換えれば、天使や菩薩と合体して、この地球人類を救う大きな役目を、自分が荷っているということになるのです。
 
世界平和の祈りが本当に軌道に乗ってくると、自分の体から、光がパーッと出てゆくわけです。

救世の大光明に合体して、自分の本心の光も出てゆくわけです。

知らない間に、自分の体が光明燦然たる肉体身になるわけです。

肉体身がそのまま霊体のように、光明燦然と光を放つ体になるのです。 

そうすると、自分が言葉でとやかくお説教するんじゃなくても、自分が気がつかなくても、相手が浄化されてゆく、浄まってゆく、相手が立派になってゆくということになります。 
 
声の言葉で相手を立派にするというよりも、人格そのものが、その人がそこにいるということによって、周りが浄まってゆく、知らない間に柔和な、いい人々に生まれ変わってくる、そういう人間に皆さんの一人一人がなることが一番大事なんです。 
 
声の説教というのには、嫌がる人も随分あるわけです。

しかし、柔和な、温かい、親切な人柄に接すると、その人柄から発する光によって、口をきかなくても、なんて善い人だろうなとか好意を持つ場合がずい分あります。 

それは唯物論者とか、信仰者とかいうのとは関係ありません。

人間と人間、生命と生命が触れ合ってゆく、という関係になっているのです。

だから宗教を説教しなければダメだというものではありません。

宗教の説教が判らないから、あいつはダメだ、ということもないのです。 
 
言葉以前の光、想念が光になっている。

言葉以前の自分の人格というものが、光輝いているようになれば「あなた、こうしなければダメですよ」なんて言われなくても、光が向うに伝わっていって、向うは同化されてくる。

そういう人間に、一人一人がなることが大事だと思うのです。 
 
そのためには、弛みなく「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をする。 

消えてゆく姿というのは、反省のことです。

「これはいけないな」と反省をしてそれを世界平和の祈りの中に入れてしまう。

そして日常茶飯事を続けていれば、いつの間にか、自分で何とも思わないうちに、知らない間に、自分の魂は立派になっているし、自分の行いは立派になってゆくのです。 
 
消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっていて、その行いが立派にならないとすれば、その人のやり方がどこか間違っているのです。 

例えば反省がないとか、思い上がってしまった、とかということであって、常に謙虚な気持ちで、どんな時にも、消えてゆく姿で世界平和の祈りをやってゆかなければいけません。 
 
最後の審判といっても、何も恐れることはありません。
 
消えてゆく姿で世界平和の祈りを続けていれば、その人にとって恐れることは一つもない。

その周囲の人にとっても恐れることはないんです。
そういう人が多くなればなるほど、この地球人類は怪我少なく、損害が少なく、新しい波動に合わせて、新しい世界を創ってゆける。

地球人類の天国を創ってゆけるわけなんですよ。
 
そのように人間の念力で、国の運命と地球の運命も左右されてゆくのですから、人類の生命の基であり、あらゆる生命の根幹である、大生命(神)の力がそこに全面的に働いたら、一体どうなるでしょう。

神のみ心はもとより、大調和の、み心です。

神のみ心がまともにこの地球に働きかければ、たちまちこの地球界の不調和状態はなくなってしまいます。

不調和状態がなくなる、ということは、どういうことかと申しますと、不調和の想念の持主、不調和な状態な国家社会、しいて言えば、地球世界が不調和そのものであれば、地球自体もなくなってしまう、ということになります。
 
神のみ心が、まともにこの地球界に現われるということは、非常に善いことではありますが、その力が現われる前に、不調和な状態にしがみついている人類が、その波動の調整に、大変な苦しみを味わうことになります。 

 それがキリスト教でいう、最後の審判ということなのであります。 

 私たちはこの最後の審判の時に、人類の苦しみが最小限で済むように、消えてゆく姿で世界平和の祈りを教えているのであります。
 
その七劫目が始まっている。だんだん肉体が進化していって、微妙な体になって霊界と同じ体になってゆくわけです。

そして、今度は、地球よりまだ未熟な星の人たちを、助けるような形を、とるわけです。

みんなが一つになって、宇宙の一員になって、今度は、まだ幼い他の星の人たちを助ける、という側にまわるわけです。
 
神様は、肉体波動の中に聖霊を入れて、天の使いとして、神の子を肉体人間として現わし、それで人を救うわけです。

だからお釈迦様でもイエスさんでも、みんな肉体に現われている。

それが、この地球界を救う大事な秘訣なんです。
 
肉体人間がいらなければ、目に見えない所から、すべてをやってしまえばわけないこと。

嵐を起こすことだって、海を二つに分けることだって、何をするんだって、神様からすれば簡単。

悪いものだけをシラミつぶしにするのはわけない。

神様が心臓を止めようと思えば簡単に止められます。選り分けて、いいのだけ残して、悪いのをみんなやっつけちゃうなんて、わけないことです。
 
それでは人形と同じ、ロボットと同じです。人間は人形ではないのです。

神の分け命なのです。

そして、神様から命の自由を与えられているのです。

だからいいことをするのも、悪いことをするのも、みんな人間の自由なのです。

しかし、自由といっても、それが重なって滅びてしまったのでは、神様とすれば、自分の子供ですから困るんです。

そこで神様は適当に自由を与えているけれども、最後に危ない時には、やっぱり守護霊守護神が天降ってきて、悪を止めたり、悪を滅ぼしたりする
わけですね。

それで、最後の審判というのがあることになっているわけです。
 
最後の審判の時には、人類の三分の二は死んでしまうとか、ハルマゲドンの戦いなどと言って、何回も何回も戦って、みんな死んでしまうようになることが、ヨハネの黙示録に書いてあります。
 
しかし、実際にそうなるかどうかは別問題。

大勢の人が苦しまないようにと、世界平和の祈りによって、最少限度に人類の苦しみを救おう、という天命を神様から受け持たされている。

そして皆さんもその同志として、そういう役目を持たされて、神様から降ろされている菩薩さんなのです。

私は予言者ではありません。

私は実際家であり、実現者なのです。

イエスは予言者。予言を成就した。洗礼のヨハネも預言者です。

私はこの地上界の実現者です。
 
イエスは霊的な世界の実現者であったかもしれないけれど、肉体界では磔で、自分はみじめな思いをしたわけです。

ヨハネも首を切られてしまった。

それで何にも実際には出来てなかったでしょう。

私はイエスさんをけなしているのではありません。
イエスさんは立派な魂だし、神の子ですからね。

だけども実現しなかった。
 
ところが私は予言者ではない。

実際にここに世界平和を実現しようと思っているんです。

天のみ心を地に行うのだ。

地に実現するというのが、私どもの団体なのです。
実現するためには、あまり難しくては実現できない。理論的ではだめだし、小さい子にも年寄りにでも、実際に、納得して出来ることでなければいけない。
 
「世界人類が平和でありますように」という唱え言は、楽々と誰にでもわかって、実行できます。

簡単に言えて、簡単にわかる、というのが一番
いいんです。

やさしいから大したことがないんではないか、と思うと、さにあらず。

入り方はやさしいのに、奥は深くて深くて、深―いのです。

私どもの生きている間に、必ず平和の道が決まります。

全部が平和になるとは申しません。

さあーこれが平和の道、この道を行きさえすれば、世界は平和になるんだ、という役目を私はするのです。

(問)イエスが5つのパンをさいて何千人の人を満たしたと言われていますが、
 霊的には、この空中には人間の食料となるようなものが、元素として一杯あるんですよ。それが口から入らなくとも、波動ですからスーッと入ってくる。

そうすると満腹するのです。霊的要素としてみんなの体の中に入ったと思うんです。
 
宇宙子科学的に祈ったら、空中からパンが出てきて、それを食べさせたと、私は思います。

一月も食べなくとも、ちゃんと働いていたり、学校へ通ったりした子供もあったりするんだから、霊的に霊要素を入れれば、食べなくたって生きられます。
 
私たちは宇宙子科学で実際に、空中からパンを出そうと思っているんです。

 地球科学でも相当なところまでいったんですよ。
元素は空中にあるんだから、元素を集めれば出来ますよ。


世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命がまっとうされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます




◎ 本 当 の 幸 福 ◎

【 正 法 に 奇 異 な し 】

奇蹟を追う心は高い心ではありません。奇蹟など欲せずとも、自分が真実、神を求め、良心にもとらぬ行いをしていれば、神が必要と思われる時に、自然に現われてくるものなのです。

霊能とか何か特別な力を欲してはいけません。予言がいかに的中しようと、そんなものは何にもならない。出てくるものは出てくるし、出て来ないものは出て来ないのです。現われてくる、自分に都合の悪い事柄に対しても、つねに揺ぎない心、恐れない心を作らせることが、本当の宗教なのです。

奇異を求めず、素直に神に導かれることを欲するなら、まず自分の本体を出すことに懸命に努力することです。自分の本心を現わすことと、世界人類の平和を想う、この二つの祈りをつねにすることです。この二つの祈りの他に祈りはありません。そして一日、一日の行動が道にかなうよう、自然に、平凡に、スムースに神が導いて下さるのです。

予言が当った、病気を治した、商売を繁昌させるようにした、といったって、それが偉いのではありません。偉いのは、気張ることもなく、いくらへりくだっても、自然にその人格、魂から輝き出る光が人をひきつけ、人に慕われる、といった生き方にあるのです。

( 五井昌久著 『生 命(いのち)光 り 輝 けー 五井昌久講話集 1』白光出版 )

・・・・・・・

《 人 間 と 真 実 の 生 き 方 》

人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守られているものである。
 
 この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
   
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。

  《 HOW MAN SHOULD REVEAL HIS INNER SELF 》

 Man is originally a spirit from God, / and not a karmic existence. /
 
He lives under the constant guidance and protection / provided by his Guardian Deities and Guardian Spirits. / 
 
All of man 's sufferings are caused / when his wrong thoughts / conceived during his past lives up to the present / manifest in this world / in the process of fading away. / 

 Any affliction, / once it has taken shape / in this phenomenal world, / is destined to vanish into nothingness. / Therefore, / you should be absolutely convinced / that your sufferings will fade away / and that from now on / your life will be happier. / Even in any difficulty, / you should forgive yourself / and forgive others ; / love yourself / and love others. / You should always perform / the acts of love, / sincerity and forgiveness / and thank your Guardian Deities and Guardian Spirits / for their protection / and pray for the peace of the world. / This will enable you / as well as mankind / to realize enlightenment.

《  世 界 平 和 の 祈 り 》

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

*  *  *  *  *  *  *

この祈りは五井先生と神界との約束事で、この
祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、
自分が救われるとともに、世界人類の光明化、
大調和に絶大なる力を発揮するのです。

《  PRAYER FOR THE PEACE OF THE WORLD 》

May peace prevail on earth.

May peace be in our homes and countries.

May our missions be accomplished.

We thank you, Guardian Deities and Guardian Spirits.

*  *  *  *  *  *  *

Concerning this prayer, an agreement 
was made between Goi Sensei and the 
Divine World.
According to this agreement, whenever 
we pray this prayer, the Great Light of 
World Deliverance will definitely shine 
forth, without fail. Then you yourself 
will be uplifted and at the same time an 
immense power will be manifested,
transforming the vibration of humanity 
into a Great Harmonious Light Vibration.