これは、新見恵理子との情交の歌である。
89年暮れに海外旅行先で知り合い、この歌をのせた歌集「宮殿」は91年10月刊、
とあるから岡井は62~3歳、恵理子は30歳前後であろう。
曲率は曲線の曲がり具合を言うが、曲率の桃、とは充分ふくらみのある乳房、
桃とはその大きさ(Bカップくらいか?)と弾力性のある柔らかさ、若さ、を言いたいのであろう。勿論隆にとっては新鮮でもあったに違いない。
乳輪や乳頭の色にもその連想が働いた原因があるかもしれない。
その32歳年下の若々しさを前にして、その若さにふさわしい男としての能力、体力をもった存在として恵理子にプレゼンテーションしたい、という初老の男の意気込みが「演じつくさむ」に込められているのであろうか。
一方 同書には、男のエクスタシー、射精について触れた部分がある。
「射精の快美は十数秒あるいは数秒で終わり、そのあとに虚無がくるか悔悟が来るかである。快美が、充分に身体側の現象であって、精神へは重い後味を残すというのは(たとえ安定した男女関係の中で行われても)交合の持つ性格である。」
これから、あるいは「意気込み」というより事後のある種の「むなしさ」を先取りして「演じ、、」と表現したのかも知れない。
いずれにせよ、共に絶頂を迎え、味わい尽くそう、というのではないらしい。
いや、男女の交合はそもそもそんな、女性誌が求めるフェミニズム的なものではなく、男と女が、それぞれ独自で別種のエクスタシーがあるのだ。そしてそこには乗り越えられない断裂がある。
と私は思う。