大河ドラマ『光る君へ』は、関白道隆の薨去により、新たなステージへと進み始めました。
道隆の没後すぐに「中関白家」が消滅するわけではないし、清少納言の出仕が終わるわけでもないのですが、道隆存命期の『枕草子』の映像化は、これで消え去ってしまったことになりますね…。
まぁ、『光る君へ』は「清少納言大河」ではなく「紫式部大河」なので、『枕草子』は「いくつか見れたら喜ばしい」くらいに思っていましたけど、なんだかもったいないなぁ…という気持ちでいっぱい。
じゃあ、大河でやらないんなら、うちのブログでやってしまうのも、これまた一興…と、いつものように思い至り(笑)
で、どうせだったら、道隆が関係してくる段をやるのが、タイムリーなのではなかろうかと。
『枕草子』で道隆が登場する段と言えば、有名なのは「清涼殿の丑寅の隅の」。
お話の内容は、『枕草子』に13個あると言われている「清少納言の自慢話」の1つ(笑)
時期的には、正暦5年(994年)春頃の出来事と考えられています。
道隆政権が軌道に乗り、2月には「積善寺供養」があって、新築の「二条宮」で造花の桜を愛でたという、まさに「中関白家」絶頂期。
(『光る君へ』でいうと、第15話「おごれる者たち」と第16話「華の影」の間)
というわけで、せっかくなので原文を引用しながら、中身をご紹介していきたいと思います。
なお、定子は内裏の中で当初「登華殿」を割り当てられていたので、一連の出来事はここで起きていたことになりそうですね。

(「清涼殿」の「丑寅(北東)」の廊下に出てまっすぐ北上すると「登華殿」がありますね)
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清涼殿の丑寅のすみの 北のへだてなる御障子は 荒海の繪 生きたる物どものおそろしげなる 手長足長などをぞかきたる 上の御局の戸をおしあけたれば つねに目にみゆるを にくみなどしてわらふ
高欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすゑて 桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを いと多くさしたれば 高欄の外まで咲きこぼれたる ひるつかた 大納言殿 桜の直衣のすこしなよらかなるに こきむらさきの固紋の指貫 しろき御衣ども うへにはこき綾のいとあざやかなるをいだしてまゐり給へるに うへのこなたにおはしませば 戸口のまへなるほそき板敷にゐ給ひて 物など申したまふ
段の入りの部分。「清涼殿の丑寅の隅(北東の隅っこ)」にある"ついたて"には「荒海や手長足長など怖ろし気な絵が描いてある」というビジュアルの説明から、お話がスタート。
「清涼殿の丑寅のすみの」というサブタイから、さも「そのはじっこで何かが起きるお話」と思ってしまうのですが、何のことはない、ただの風景描写の一部だったりしますw(書き出しがサブタイになっているから、そう思ってしまうのですよね)
ちなみに、中国でも宮中の襖絵には「神仙」や「妖怪」が描かれることが多かったようで、こんなところに「手長足長」絵な"ついたて"があったのは、中国の風俗に倣ったものなんだろう…と言われています。上級屋敷の襖絵といえば「狩野派」や「琳派」というイメージがある現代の我らからすると、ちと違和感がありますかね。
そして、次の「欄干の元に『青磁の瓶』を置いて、桜の枝がいっぱい挿してある」の描写部分は、後でまた出て来るので覚えておきましょう。
昼ごろ、大納言・伊周が桜の直衣(なおし。平服)に濃紫のはかまという、傾奇者っぽい(?)イデタチで登場。戸口で一条天皇と何やらおしゃべりしている様子が描かれます。
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御簾のうちに 女房 桜の唐衣どもくつろかにぬぎたれて 藤・山吹など色々このましうて あまた小半蔀の御簾よりもおしいでたる程
晝 の御座のかたには 御膳まゐる足音たかし警蹕 など「おし」といふこゑきこゆるも うらうらとのどかなる日のけしきなど いみじうをかしきに はての御盤とりたる蔵人まゐりて 御膳奏すれば なかの戸よりわたらせ給ふ 御供に廂 より 大納言殿 御送りにまゐり給ひて ありつる花のもとにかへりゐ給へり 宮の御前の御几帳おしやりて
長押 のもとに出でさせ給へるなど なにとなくただめでたきを さぶらふ人もおもふことなき心地するに 「月も日もかはりゆけどもひさにふる三室の山の」といふことを いとゆるるかにうちいだし給へる いとをかしう覚ゆるにぞ げに千とせもあらまほしき御ありさまなるや
御膳を運ぶ人たちの慌ただしい足音や、警備を担う武士たちの「おし」という挨拶声が聞こえてくる宮中。やがて蔵人が迎えに来て、帝は一旦、食事のために退出となり、伊周が廂までお見送り。
文中にもあるように、天皇は「昼御座」で食事を摂ります。場所は「清涼殿」の南半分…といったかんじかな。「五節の舞姫」の時に、2日目のリハーサル「御前の試」を天皇が観覧する場所でもあります。
定子も長押(なげし)まで出て来て、その華やかさに感化されたのか、伊周がゆったりした口調で、古歌を詠みあげます。
月も日も 変はらひぬとも ひさにふる
三諸の山の とつみやところ
よみ人しらず / 万葉集 13巻 3231
「月日は過ぎ去り移り変わっても、この三諸山の外つ宮処(離宮)は、幾久しく変わることがないのだなぁ」…のような意味。
吟じられた古歌が響く宮中に、雰囲気は最高潮。千年続いて欲しい…という清少納言の嘆息めいた感想が突いて出ています。
すると、食事もそこそこに終わらせて、一条天皇が再び戻ってきます。
そんなに定子と会いたいの帝…?というかんじ。仲睦まじきは良きことかなw
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陪膳つかうまつる人の をのこどもなど召すほどもなくわたらせ給ひぬ 「御硯の墨すれ」と仰せらるるに 目はそらにて ただおはしますをのみ見たてまつれば ほとどつぎめもはなちつべし 白き色紙おしたたみて 「これに ただいまおぼえんふるきことひとつづつ書け」と仰せらるる 外にゐたまへるに 「これはいかが」と申せば 「とう書きてまゐらせ給へ 男は言くはへさぶらふべきにもあらず」とてさしいれ給へり 御硯とりおろして 「とくとく ただ思ひまはさで 難波津もなにも ふとおぼえんことを」と責めさせ給ふに などさは臆せしにか すべて おもてさへあかみてぞ思ひみだるるや
帝が足を運ばれたことで、宮中は再び活気付き、定子からいつもの(?)無茶振りが発令されます。
「硯で墨をすって、この白紙に思い付いた和歌をひとつづつ書いて行って」
突然の指令に、動揺が広がる女房たち。思わず御簾の外にいた伊周に「これはどうしたら…」と助けを求めるのですが、「早くおやりなさい。これは男が口を挟むべきものではないから」と促されてしまいます。
定子も硯を下ろして「ほら考え込まないで、『難波津』でもなんでも、思いついたものを書いて行って!」と急き立てるので、ますます混乱の度が増していくのでした(書かれている内容とは裏腹に、楽しそうだな)
(4/5)
春の歌 花の心など さいふいふも 上﨟ふたつみつばかり書きて 「これに」とあるに
年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし
といふことを 「君をし見れば」と書きなしたる 御覧じくらべて 「ただこの心どものゆかしかりつるぞ」とおほせらるる
女房たちが「春の歌」や「花の心」などと言いながら2つ3つと書かれて、清少納言のもとに回って来たところ、「あの歌をちょっと変えれば…」と思いつきます。
染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど
花をしみれば物思ひもなし
前太政大臣(藤原良房) / 古今集 春 52
詠み人の「前太政大臣」というのは、藤原良房のこと。「人臣初の摂政となった藤原さん」として、歴史の教科書にも大々的に載っている人物ですねw
本歌の詞書によると、「染殿の后の前に桜の花が挿してある花瓶を見て詠んだ」とあります。「染殿の后」は良房の娘である明子(あきらけいこ)。文徳天皇の女御で、清和天皇の生母にあたる女性です。
それらの登場人物については、こちらを参考にしていただくとして…。
藤原の兄弟たち(花婿の禍福編)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12797193366.html
和歌の意味は「年月が過ぎて私もすっかり年老いてしまったけれど、この桜の花を見ていると、思い煩うことは何もない…という気持ちになるものだ」のようなかんじ。
年老いた良房が、娘が天皇に入内して皇子を産み、その子が即位することになって、「もう憂うこと(物思い)は何もない」との慶びを、花瓶の桜に託して詠んだ和歌。
この和歌の「花をしみれば」を「君をしみれば」に替え、「君(定子)を見ていると、思い煩うことは何もない」という意味の和歌に書き変え、提出したのでした。
年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど
君をしみれば物思ひもなし
清少納言 / 枕草子 清涼殿の丑寅の隅の
定子はそれを見ると「ただ、その歌の心もちを知りたかったんですよ」と感心して、そのついでに昔話を始めます。
(5/5)
ついでに圓融院の御時に 「草子に歌ひとつ書け」と 殿上人におほせられければ いみじう書きにくう すまひ申す人々ありけるに 「さらにただ 手のあしさよさ 歌のをりにあはざらんも知らじ」とおほせらるれば わびてみな書きける中に ただいまの関白殿 三位の中将ときこえける時しほのみつ いつもの浦の いつもいつも 君をばふかく思ふはやわが
といふ歌のすゑを 「たのむはやわが」と書き給へりけるをなむ いみじうめでさせ給ひけるなどおほせらるるにも すずろに汗あゆる心地ぞする 年わかからん人 はたさもえ書くまじきことのさまにや などぞおぼゆる 例いとよく書く人も あぢきなうみなつつまれて 書きけがしなどしたるあり
「円融院がまだ皇位にあった時、『草子に歌を1つづつ書いて』と殿上人に仰せになったことがあってね。でも、みんな書きづらくて辞退する人が何人も出たから『字の上手下手とか、歌が折(季節)に合っているかどうかとか、関係ないから書いて書いて』と院が仰ったものだから、困惑しながらみんなで書いて行ったそうなのね」
今回の定子がやった「硯で墨をすって、この白紙に思い付いた和歌をひとつづつ書いて行って」とやったら、みんなが戸惑っているのを「何でもいいから書いて書いて」と急かした、まるで同じシチュエーションが、円融院の御時にあったわけですね。
「その中で、まだ三位の中将だった今の関白殿が、和歌の一部を変更して提出されたそうなの」
「まだ三位の中将だった今の関白殿」というのは、もちろん定子の父・道隆のこと。
そのもととなった和歌が、こちら。
潮の満つ いつもの浦の いつもいつも
君をば深く思ふはやわが
よみ人しらず / 出典不明
「潮が満ちるいつもの浦のように、いつもいつも貴方のことを深く想っているのは私です」みたいな意味。
道隆は、この和歌の「思ふはやわが」の部分を「頼むはやわが(頼りにしてるのは私です)」に書き変えて提出。
「すると、円融院は大層お褒めになったそうなのよ」
ということは、定子は「和歌の一部を当意即妙に書き換え円融院に褒められた道隆」とかけて、清少納言を褒めているわけですな。
「とにかく冷や汗が出る想いをした…まぁ、年の功よね」という清少納言の感想で、この章段の前半は締められています。
定子が女房達を急かす時に言っていた「『難波津』でもなんでも~」は、『古今和歌集』の仮名序を引っ張ってきています。
難波津に 咲くやこの花 冬籠り
今は春べと 咲くやこの花
王仁 / 古今集 仮名序
「難波の宮に花が咲いたよ。長い冬が終わって春が来たね。花が咲いているよ」みたいな意味。
「百人一首かるた」の競技前に詠まれる和歌なんだとか…?「咲くやこの花」を2回も詠んでいるところにリズムが生まれて、桜に話しかけているかのような雰囲気を生み出しておりますねw
清少納言が「桜を詠む歌」を書こうと思いついたのは、この「仮名序」を持ってきた定子の「歌の心持ち」が「春」「花」にあることに気づいたからなのでしょう。
とはいえ、清少納言の前に書いた女房も、「春の歌」や「花の心」などと2つ3つ書いているので、ここまでは誰でも気を回せる範囲。
そこに、良房の和歌を選んだのが、ナイスチョイスw
この段の冒頭にあった風景描写で、欄干の元にあった「桜の枝がいっぱい挿してある青磁の瓶」が出てきましたよね。
良房の和歌は「花瓶に挿してあった桜に、娘の明子を仮託して詠んだ和歌」でした。だから、清少納言は現実に置いてあった「桜の花瓶」という共通点を見極めて、この和歌を選んだ…と言われています。
さらに、伊周が吟じていた「月も日も~」は「宮廷の栄華」を歌った和歌なので、読み替え後の歌が、それに倣う意味になるような言葉を選んでいます。
ここまで体裁を整えて、あの和歌を献上しているわけで。定子が感心するのも納得できるなぁと言う感じがしますねw
しかし、褒められた結果が「冷や汗」というのが奇妙といえば奇妙。
ここでは省略しますが、実は段の後半では、定子に『古今和歌集クイズ』を出され、あまり正解できず、定子に不勉強を窘められた…という話が、「宣耀殿の女御」(藤原師尹の娘・芳子。村上天皇の女御。古今集の収録された和歌を全て覚えていたという…すごい)を引き合いに出して語られています。
なので、前半の「褒められの自慢」部分は、後半の「叱られと反省」部分への引き立てだったのではとも解釈されています。上げて下げることで可笑しさを誘う論法ですねw
あるいは、定子に褒められたことによる嫉妬を逸らすためだった…とも。
清少納言、意外と人に気を遣うタイプでもあるんですよね…。
とまぁ、清少納言の機知についてはこれくらいにして、今回は道隆についてのブログなので、そちらの本題に行って…
道隆が円融院に無茶振りをされて、和歌を本歌取りして献上した…と語られる部分。
道隆が「三位中将」になったのは、永観2年(984年)1月7日。
円融天皇が譲位したのは、永観2年(984年)8月27日。
この8ヶ月弱のうちにあった出来事ということになります。
ちなみに、円融天皇は天徳3年(959年)生まれなので、道隆よりも6歳年下。当時は25歳。円融天皇の母・安子は兼家の同母姉なので、両者は従兄弟の関係に当たります。
永観2年(984年)の前半は、円融天皇が「譲位」をするかどうか深く悩んでいた時期でした。
円融天皇の皇太子には、冷泉天皇の皇子・師貞親王(のちの花山天皇)が立てられていました。冷泉皇統こそが本流という、当時の公家社会の共通認識に立つものです。
このまま行けば、自分は中継ぎの天皇として役目を終え、自身の円融皇統は傍流として歴史から忘れ去られていくことになります。
しかし、円融天皇には天元3年(980年)1人息子の懐仁親王(のちの一条天皇)が誕生しており、「この子に皇位を継がせたい…」と願うようになっていました。
懐仁親王を即位させるためには、どうしたらいいか…?それは、次期天皇となる師貞親王の皇太子に、懐仁親王を立てるしかありません。
それには朝廷への政治工作が必要。そんなことができるのは…?懐仁親王の外祖父・藤原兼家だけです。こいつに頼るしかありません。
しかし、円融天皇と兼家の関係は、かなりビミョウ。
円融天皇は、公家社会の権力バランスを取るために、天元5年(982年)の「皇后」選考時に、懐仁親王の生母・詮子は外し、関白の娘を「皇后」に立てる…という人事に及びます。
兼家は怒り、失望。懐仁親王と詮子を内裏から連れ出して、出仕をボイコットするという状況になっていました。
さらに、兼家には、冷泉天皇の皇子・居貞親王(のちの三条天皇)という外孫がいたので、円融天皇と違って「懐仁親王を立てねばならない!」という切迫した事情がありません。
「師貞親王の次は、居貞親王を皇太子にしよう。円融?あんなヤツどーだっていいわ。さっさと退位してもらいたいだけの存在に過ぎん。確かに懐仁は可愛いが…」
しかし、結果的に円融天皇は、兼家との関係修復に成功し、懐仁親王の立太子を条件に譲位を行っています。
円融は、疎遠となった兼家との関係修復を、どうやって成し遂げたのだろうか?
それはもしかしたら、道隆が尽力したのではなかろうか。
そして、この「清涼殿の丑寅の隅の」に語られている部分は、それを記録しているのではないか…と妄想しています。
円融天皇が殿上人たちに「思いつくまま和歌を」と無茶振りをした時、そこに兼家の嫡男・道隆もいました。
もしかしたら、その時は期待とか他意とかは、特にはなかったのかもしれない。
ところが、誰も和歌を出してこない中、道隆が名乗りをあげて差し出してきたのが、あの和歌でした。
潮の満つ いつもの浦の いつもいつも
君をば深く頼むはやわが
藤原道隆 / 『枕草子』清涼殿の丑寅の隅の
この恋の和歌の「思ふはやわが」の部分を「頼むはやわが」に書き換え、「潮が満ちるいつもの浦のように、いつもいつもお上のことを頼りにしているのは私です」と詠み替えて献上した。
「これは、もしや道隆…?」と、円融天皇は気づいたのではなかろうか。
父・兼家が「師貞親王の次は居貞親王」と戦略を立てていた時、道隆がどこまでそれを知っていて、どこまで協力体制を立てていたのかは分かりません。
しかし、円融天皇に対して「頼むはやわが」と詠んだのは「私が頼りにしているのは円融天皇、お上でございます。師貞親王でも、居貞親王でもありません」と読めます。
円融天皇が切迫している、あのタイミングでこの和歌を献じるのは、「大丈夫です。私がお上のなさりたいことができるよう、尽力いたします」という「忠誠」を意思表示していた…。
それを察知したからこそ、円融天皇はいみじうめでさせ給ひける(大層お褒めになった)と激賞したのではないか…。
そんな風にも深読みできると思うのですが、どうでしょうかねー。
疎遠だった兼家と円融天皇の関係を修復して、懐仁親王の立太子を実現。「寛和の変」で花山天皇に背いて一条天皇を即位に導き、娘を入内させて関白家と天皇家の絆を強め、円融皇統の血脈を後世にまで続けていく姿勢を見せる道隆。
こうして見ると、道隆は円融皇統にとって忠臣中の忠臣…ということになりそう、なんですが……
「清涼殿の丑寅の隅の」で、清少納言が詠み替えた和歌。
年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど
君をしみれば物思ひもなし
清少納言 / 『枕草子』清涼殿の丑寅の隅の
「物思ひもなし」は、「憂いがなくなった」の意味。充足感・満足感を表しています。「君」 や 「花」 によって「物思ひがなくなった」満足感を詠んだ歌と捉えられます。
正暦5年(994年)は、「中関白家」絶頂期。それを言祝ぐには相応しい和歌。
しかし「物思い」の種は全くなかったわけでは、なかったりしました。
一条天皇の皇太子に立っていたのは、繰り返すようですが居貞親王。再び冷泉皇統に戻る約束になっていました。
そして、正暦5年5月9日、居貞親王には第一子「敦明親王」が誕生しています。『光る君へ』では何故かまったく触れられていなかったのですが…(本当に何故?)
敦明親王の母は、小一条流藤原氏の済時の娘・娍子(すけこ)。決して血筋は悪くありません。済時は、道隆にとっては酒呑み友達ですが、血縁上の関係は、そんなに強くありません。
さらに繰り返すと、一条天皇の円融皇統は本来は傍流で、居貞親王の冷泉皇統こそが本流。
ということは「一条天皇が退位したら次は居貞親王で、その次は敦明親王」の可能性は、かなり濃厚…という事態になっていました。
伊周が、3人を飛び越えて「内大臣」となり、公卿たちの顰蹙を買ったのが正暦5年8月28日、敦明親王が誕生して1ヶ月弱後のこと。
敦明親王という血筋も悪くない男の子が、東宮の第一子として誕生したことに、道隆が焦ったのかな…という感じがします。
翌年の長徳元年(995年)。これまた『光る君へ』では何故かまっっったく触れられていなかったのですが、定子の同母妹・原子(もとこ)が、14歳で居貞親王のもとに入内しています。
さらに、定子と原子の妹にあたる道隆三女(名前は不明)も、居貞親王の同母弟・敦道親王に入内。やはり敦明親王の存在に危機感を抱いた道隆が、来たるべき三条天皇の御世への対策を行った…というところでしょうか。
(このあたりも丁寧に描いていてくれたら、『光る君へ』の「皇子を産め」や「伊周を関白に」に執着する様子も、もうちょっと見る目が変わったはずなんですけどね…)
道隆にとっては必要な一手だったのかもしれませんが、原子の入内も、三女の入内も、どちらも冷泉皇統に寄る道隆の動き。
自身の皇統を存続させたい、そのためには道隆だけが頼り…と信じていた一条天皇からしたら、道隆や定子に対して不信感を抱かせるには十分なものがあったはず。
もしも原子や三女が、居貞親王や敦道親王の皇子を産んだら、かつて兼家が「居貞親王がいるから円融天皇はどうでもいい」となっていたように、道隆も自分を見限る可能性があり。
それは、円融皇統という正統性の弱い皇統としても、道隆の性格的にも、あり得ない話ではありませんでした。
一条天皇が、「伊周を関白に」という道隆の要請を頑なに拒んだ裏には、公家社会の評判を気にしていた他にも、こんな事情があったのかもしれませんね。
「清涼殿の丑寅の隅の」は、桜の花が花瓶に生けてあることから、5月生まれの敦明親王誕生の少し前のこと…だったのかもしれず(ヤマザクラの開花はソメイヨシノと違ってバラバラなので、逆に「少しあと」の可能性もある?)
清少納言は「あの頃はまだ"物思ひ"はなかったけれど…」の意味でお書きになった…のかもしれませんな。

(一条天皇が「物思ひ」ありげに桜の枝を眺めるだけのシーンが、そんな「清涼殿の丑寅の隅の」の裏ストーリーを暗に語っているような気がして…)
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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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