先日紹介した「鳥羽・伏見の戦い」。
慶応4年(1868)1月3日~6日の、4日間に渡って行われた激戦ですが、この戦いには大きな謎があります。
それは、
「慶喜には、薩長と戦う気があったのか?」
これです。
大河ドラマ「八重の桜」では、会津の幹部たちが「なんで攻め口が鳥羽と伏見だけなんだ?」と首をかしげるシーンがありました。
実際、京都には入り口がたくさんあるのに、旧幕府軍が攻め上がろうとしたのは、鳥羽と伏見の2方面だけでした。
前記事でも触れましたが、旧幕府軍は新政府軍よりも兵力が多いです。
大軍が展開できない狭い街道を進んでいては、このアドバンテージは活かせません。
じゃあ、どうしたらいいか?多方面から一斉に攻めかかればいいんです。
敵は少ない兵をさらに分散しなければならず、籠もろうにも防御に適さない京都ですから、かなり有利になるはず。
大軍が展開できない狭い街道を進んでいては、このアドバンテージは活かせません。
じゃあ、どうしたらいいか?多方面から一斉に攻めかかればいいんです。
敵は少ない兵をさらに分散しなければならず、籠もろうにも防御に適さない京都ですから、かなり有利になるはず。
だというのに、2方面からしか攻めかからないなんて、戦略的にダメなんじゃないの?やる気あんの?と疑問です。
(事実、兵力を活かすことも出来ない街道の攻防戦に終始して、負けてしまいました)
そもそも、総大将を務めるべき慶喜が、前線よりはるか遠い大坂城に籠もりっきりだったというのも、やる気が感じられません。
もっと気になるのは、開戦の火蓋が切って落とされた「小枝橋」付近でのシーン。
先行部隊を護衛していた京都見廻組は、「何故か」銃を持っていませんでした。
相手は新式銃を装備した、精鋭の薩長軍です。
旧幕府には、新式銃を装備している幕府歩兵隊もいれば、砲兵を引き連れ士気も高い会津藩兵もいるのに、なんでわざわざ刀槍部隊を最前線に押し出すのか・・・・
というか、鳥羽街道でも伏見でも、「通せ」「通さぬ」の押し問答を繰り返していたあたり、かなりのんびりした空気を感じてしまいます。
埒が明かぬと強行突破しようとしたら、薩摩軍から発砲され、「まさか撃ってくるとは!」と衝撃が走っているのも、戦争に来ている割りにはなんだかおかしな話。
これは一体、どういうことなのか・・・・?
このあたりを確認するために、「鳥羽伏見の戦い」よりちょっと前まで時間をまき戻し、舞台裏を確認してみよう。それが、今日のブログの主な主旨ですw
「鳥羽伏見の戦い」から遡ること、約2ヶ月半。
慶応3年10月14日(1867)。
慶応3年10月14日(1867)。
慶喜が政権を返上した「大政奉還」は、薩摩や長州が企てていた「討幕」の大義名分を失わせ、計画を頓挫させました。
その年の12月9日。
諸侯を集めて今後を話し合う「小御所会議」が開かれるのですが、慶喜は会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らと申し合わせて会議を欠席。
「我らが出席しなければ会議は進むまい」
いくら政権を返上しても、徳川家は400万石の大大名。
会議はカタチだけになるとタカをくくり、慶喜は「様子を見守ろう」という態度に出ます。
会議はカタチだけになるとタカをくくり、慶喜は「様子を見守ろう」という態度に出ます。
しかし、策士・岩倉具視は「新政府から徳川の居場所をなくし、窮地に追い詰めよう」と、次の手を画策していました。
後藤象二郎に、クーデター形式での王政復古に土佐藩も乗るよう懇願。
御所を薩摩兵で囲んで、慶喜寄りの山内容堂や松平春嶽を威圧。
こうした根回しをした上で始まった会議は、長州毛利家や七卿落ちした公家や岩倉具視らの名誉回復が決定。
復職した岩倉具視は、さっそく徳川家を排除した新政権構想を奏上。
徳川家には「官位剥奪」&「領地ボッシュート」が通達されます。
徳川家には「官位剥奪」&「領地ボッシュート」が通達されます。
権力の移譲は、あっさりと済んでしまいました。
当然、旧幕府側の首脳陣・諸隊は激怒し、爆発寸前。
江戸にいる旗本たちも、続々と勝手に西上を始め、京は不穏な空気に包まれます。
慶喜は「このまま京にいるのはマズイ」と判断し、大坂城への退去を決断。
二条城の裏門から出発し、「都落ち」となったのは大河ドラマでも見たとおりです。
「大政奉還」から逆王手を決めた、「王政復古」と呼ばれるクーデター事件。
あざやかに決まった・・・・と思われたのですが、徳川家の追い落としに夢中になるあまり、岩倉たちは国庫を引き継ぐのをすっかり忘れていました。
おかげで、新政府は財布がスッカラカン。
孝明天皇の1周忌にも事欠くありさまで、大坂城の慶喜にカネを借りに行った・・・・なんて、お粗末なエピソードもあったりします。
(どのツラ下げて・・・・な話ですが、慶喜は気前よく5万両出してあげたそうです)
おまけに、幕府が抱えていた山積みの急務がどっと押し寄せてきて、薩長は困惑顔。
権力こそあるものの、自前の予算さえ組めず、急務もこなせず・・・・。
新政府は政権担当能力が弱いという印象を、内外に露呈してしまったのでした。
新政府は政権担当能力が弱いという印象を、内外に露呈してしまったのでした。
ここで、朝廷にいた慶喜寄りの派閥が息を吹き返します。
そもそも強引なやり手に、朝廷や諸藩には反薩長の空気が澱んでいたところ。
「ここは妥協するしかあるまいな・・・・」
慶喜を「前内大臣」という肩書きにして、領地召し上げ案は棚上げというところまで譲ります。
徳川家が新政府政権に復権するまで、あと少し。
「ひたすら大人しくすることで、親徳川・反薩長の勢力が盛り返すのを待つ」
慶喜の自重策は、ここまで上手く行っていたのです。
ところが、ここで思わぬところから反撃を喰らいます。
江戸のほうで大暴れしていた薩摩の藩邸を庄内藩が攻撃するという事件場勃発。
「しまった!事件は現場で起きてるんじゃない、後ろで起きているんだ!」
大坂城でも、江戸でも、この「吉報」に沸き立ちます。
「次は我々が正義をやる番だ!」
もはや誰にも止められない剣呑な空気。
しかし、薩摩は新政府の中心となっている構成員です。
ここで宣戦布告したら、旧幕府側は「朝敵」となってしまいます。
そこで、慶喜は「討薩の表」を発し、朝廷に伝えます。
「朝廷が我らに対し、このようなことをするわけがない。君側の奸の仕業だ!」
「すべて薩摩が悪い。引渡しを要求する。断るならば、討誅を下す!」
旧幕府軍に薩摩討伐の大義名分を与えてしまったと思われる「討薩の表」ですが、内容を見ると、「薩摩を孤立化させよう」「もし戦端が開かれても、薩摩との私戦となるようにしよう」という慶喜の意図が見えます。中々のうまい手です。
一方、朝廷では岩倉具視と松平春嶽の駆け引きが続いており、「徳川家は軽装であれば上洛してもいいよ」という妥協案をゲット。
しかし、「慶喜の上洛は、会津と桑名を国に帰してからにせよ」と主張する薩長と真っ向から対立してしまい、話し合いは平行線をたどっていました。
これが1月2日時点、つまり開戦直前の政治的背景だったわけです。
ここまでで読み取れる、「鳥羽伏見の戦い」前夜までの旧幕府軍の戦略は、
①「軽装」という曖昧な言葉を拡大解釈。「上洛してもいい」を素直に承諾。
②親慶喜派と薩長の話し合い(慶喜の上洛は会津と桑名の帰国後かどうか)が完了していない混乱期に乗じて、一気に入京する。
③入京後、「討薩の表」に従って、すみやかに薩摩を討つ!
こんな感じだったのではなかろううか。
だから、鳥羽方面の先行部隊は銃を持たず(=軽装)、強行突破すれば通してもらえる(=上洛OKの沙汰)と考えていたのだと、ワタクシは思います。
この予定が狂ったのは、薩摩の西郷・大久保が「覚悟完了」していたからではなかろうか。
「旧幕府軍に入京を許したら、徳川家にイニシアチブを取られてしまう」
「兵力は劣勢だが、入京前にカタをつけなくてはいけない」
上部がちゃんと腹を括っていたから、鳥羽街道で強行突破をされた時、薩摩軍は躊躇することなく発砲できたわけです。
一方、慶喜は攻撃されるなんて想定外。
むしろ、「万が一始まったら、薩摩のせいにすればいい」と考えていたようなフシがあります。
しかし、大坂城で1日目の惨敗を聞いた時、「先に攻撃してきたのは薩摩だ」という態度を取ろうとしても、もう敗戦の状況は覆せず・・・・。
2日目には、慶喜から「全軍撤退」の指示が出るのですが、勝手に戦闘開始してしまった前線は、意地でも下がることができません。
「というか、『討薩の表』って何だったの?」という話にまでなっています。
こうして、前線は状況が見えないまま意地で戦って負けを繰り返し、指揮官は退却以外に戦略を考えなくなり、旧幕府軍は泥沼に陥ったまま、ずるずると大敗を喫してしまいます。
慶喜と西郷・大久保の覚悟のズレが、緒戦の結果に大きく影響し、旧幕府軍はそのまま負けてしまった。
そうワタクシは考えているのですが、どうでしょうかねー。
計画が頓挫してしまった慶喜は、やる気をすべて喪失。
何もかも「かったるい」という気持ちになってしまいます。
何もかも「かったるい」という気持ちになってしまいます。
1月6日、「大坂城で籠城戦だ!」と最後の望みを託している部下たちを置き去りにして、江戸へ逃亡。
それを知った旧幕府軍は、茫然自失。バカバカしくなって、各々でおうちに帰っていくのでした。
1月7日には「慶喜追討令」が出され、空っぽになった大坂城はあっさり接収。
新政府に寝返る藩主が続出して、完全に「流れ」は決まってしまいました。
「鳥羽伏見の戦い」は、慶喜には「やる気」がなく、勝手にやられて勝手に負けたことで「かったるく」なって江戸に逃げたという、そんなレッテルが慶喜には貼られているかと思います。
それを知った旧幕府軍は、茫然自失。バカバカしくなって、各々でおうちに帰っていくのでした。
1月7日には「慶喜追討令」が出され、空っぽになった大坂城はあっさり接収。
新政府に寝返る藩主が続出して、完全に「流れ」は決まってしまいました。
「鳥羽伏見の戦い」は、慶喜には「やる気」がなく、勝手にやられて勝手に負けたことで「かったるく」なって江戸に逃げたという、そんなレッテルが慶喜には貼られているかと思います。
でも、日本の今後のことを考えたら、これで良かったのかもしれません。
もしそうなっていたら、その後の日本はどうなっていたのか・・・・?
考えるだけでも恐ろしいです。
大坂城で見せた、慶喜の「やる気」喪失。
これが意外と日本を救った面は、決して小さくない・・・・かも?
散々言ってしまいましたし、こうして慶喜サンをフォローしておきます(笑)
大河ドラマでも描かれていましたが、「王政復古」で大阪へ退いた慶喜は、英・仏・蘭・米・伊・孛(プロシア)の六ヶ国の代表を謁し、「外交はこれまで通り徳川家がやる」と表明していました。
ここでもし、下手に慶喜が「やる気」を出していたら、諸外国の干渉は間違いなくあったでしょう。
外交権は徳川にありましたし、現地の内紛につけこんで植民地化を進めるのが、西欧列強のセオリーだったからです。
もしそうなっていたら、その後の日本はどうなっていたのか・・・・?
考えるだけでも恐ろしいです。
大坂城で見せた、慶喜の「やる気」喪失。
これが意外と日本を救った面は、決して小さくない・・・・かも?
散々言ってしまいましたし、こうして慶喜サンをフォローしておきます(笑)