今日の大河、実はまだ見ていないんですが(笑)、「桜田門外の変」まで描かれていたそうですね。

うっかりツイッターを覗いてしまい、先行きを知ってしまいました(^^;

吉田松陰の処刑をやった回に、井伊直弼も退場。

松陰の処刑は安政6年10月
桜田門外の変は安政7年3月

時間的には決して早過ぎはしない・・・・とはいえ、濃い話になったでしょうねw


とまぁ、見てもいないドラマに触れるのは、これくらいにしておいて。

いきなりですが、「桜田門外の変」って、どの程度知ってます?


「江戸幕府の大老・井伊直弼が暗殺されたテロ事件」

「季節外れの大雪が降りしきる中で殺された」

「幕府のナンバー2が殺されたことで、幕府の権威は失墜し、幕末の動乱に繋がった」

聞いたことあるだけだよーって方でも、このあたりなら知っておられる方も多いのではなかろうか。

「黒幕および実行犯は、水戸藩の脱藩浪士」

「事件当日は三月三日だった」

「事件現場は江戸城の目の前、現在の皇居のすぐ近く。国会も見える」

「彦根藩邸から江戸城までは500メートルあまりの距離。そのわずかなチャンスをつかれて殺された」

「事件は3分から10分たらずで為された」

「井伊直弼は駕籠から引きずり出され、首を討ち取られて、棄てられた」

歴史が好きな方なら、このあたりまでも分かるかもしれません。


では、ここで問題。


襲撃側(水戸)の人数は?

守備側(彦根)の人数は?

それぞれの戦死者の数は?

それぞれの生き残りは、その後どうなった?


そして、そして。

「桜田門外の変」って、彼らが計画していた作戦の「第一段階」に過ぎなかったって知ってました?



「桜田門外の変」とは、クーデターの第一段階。つまりクーデター未遂事件。

井伊大老を暗殺した後、薩摩から上洛した薩摩軍と京都で落ち合って、幕政改革のために旗を挙げる・・・・というのが、クーデター計画の全貌。

未遂で終わったのは、同調する約束が薩摩藩から反故にされてしまったから。

いや、約束した時と当時とでは、薩摩藩のトップが替わっていたので(斉彬→久光)「反故にされた」というよりは、「事情が変わったことを、読み誤って決行してしまった」と言った方が、正しいのかもしれません。

ともあれ、事件現場を脱した実行犯たちは、約束が空中分解したせいで行き場を失い、たったの2年でほとんど(3人以外)が捕縛されてしまいました。

事件を知り、激昂した水戸藩主・斉昭は、「全員を厳罰に処す!」と宣言。

彼らの家族が犠牲となり、関係した町人も殺され、実行犯も次々と逃亡先で捕まって斬首されていったのでした。


彼らはなんで、あんな目に遭わなければならなかったんだろう・・・・?

「桜田門外の変」を実行犯側の視点で考えたとき、そう思わずにはいられません。

井伊大老の失政を、世間は気がついているんです。

その井伊大老を成敗した水戸脱藩浪士・・・・・・・・でも、彼らが讃えられることはありません。

讃えられないどころか、今現在でさえ評価は低く、忘れられてさえいます。

運命の悪戯?
時代に嫌われた?
分別を忘れた大人が悪い?

感情に流されず、慌てず、何もせず、己のやるべきことだけやって、うまく立ち回る。
それが最善の保身の術だよと、歴史は教えているのか・・・・?

正直、「過激過ぎたとはいえ、そこまで断罪しなくても」って思ってしまいます。

と同時に「オレら、いい時代に生まれたなぁ」という気もしますね(笑)



冒頭で出した問題・・・・放置ってのもアレなので、回答を載せておきます。


Q.襲撃側の人数は?

A.18人(水戸藩士17人、薩摩藩士1人)

・戦死者:1人(稲田重蔵)
・重傷のため死亡:2人
・負傷のため自刃:4人
・病死:1人(黒澤忠三郎)

Q.守備側の人数は?

A.
60人余(武士26人。あとは草履取りとか駕籠持ちとか)

・戦死者:4人(河西忠左衛門、沢村軍六、ほか2名)

・重傷のため死亡:4人(日下部三郎右衛門、ほか3名)


襲撃側は稲田重蔵という、1人だけ戦死者が出ています。

彦根藩側に河西忠左衛門という二刀流の剣士がおりまして、最後の最後まで大老が乗った駕籠を守っていました。

その剣豪に阻まれての戦死。

その河西も、複数の浪士に膾のように切り刻まれて即死。
多勢に無勢では、いくら剣の達人でも敵わなかったのですねー。


ちなみに、襲撃側の指図役・関鉄之助には必勝法が3つありました。

1・武鑑(大名カタログ)を見て待ち伏せする(=見物客のフリをして油断させる)。
2・桜田門ギリギリまで引き付けて、援軍が来ないうちに片付ける。
3・まず先頭の者を斬殺し、引き上げようとする混乱を突く。

3番目の「まず先頭のものを斬殺」されたのが、日下部三郎右衛門

「重傷のため後に死亡」した4人のうちの1人となってしまいました・・・・。


Q.それぞれの生き残りは、その後どうなった?

A.襲撃側:ほとんどが捕縛されて斬首。

逃げおおせた3人のうち、広木松之介は逃亡先の鎌倉で自刃。
海後磋磯之介、増子金八の2人は明治以降まで生存。

A.彦根側:主君を討ち取られ無傷のまま逃げ戻った彦根藩士7名は、投獄されて後に処刑。


襲撃側の広木松之介は、鎌倉の「上行寺」というお寺まで逃亡。

しかし、みんな捕まって処刑されたという情報を聞いて、絶望して自害したそうです。
事件から3年後のことだったそうな。

ワタクシが鎌倉に行った時、そこの墓参りもしてきました(ただし、お墓を間違えていた可能性があって、要確認、という状態でもあるんですが・・・・)

お墓のほかに、本物の人間の髪の毛を使った鬼子母神像と、(伝)左甚五郎の彫刻もあります。

鎌倉駅から徒歩20分くらい?ワタクシは歩いていきましたがバスでも行けます(^^;


彦根側の処刑の裏には、藩の政変があります。
直弼の懐刀だった、長野主繕なども処刑されてます。

それにしたって、被害者の中にさらに被害者が・・・・ってのは、ひどい話だよなぁ。主君を守れなかったってのは、確かに職務怠慢とはいえ・・・・。


ちなみに、吉田松陰の処刑から桜田門外の変までの間には、日米修好通商条約の批准書を取り交わすために、日本からの使節団がアメリカに向けて出発しています。

安政7年1月18日に出航。
勝海舟や福沢諭吉らを乗せた咸臨丸も同行しました。

批准書には「安政7年4月3日」と署名してありますが、これは日本史上存在しない日付。

安政7年3月18日に、万延に改元されてしまったからでした。

彼らが「万延遣米使節団」と呼ばれる由縁です。

事件のことを彼らが知ったのは、帰路の途中で寄航した香港でのこと。
「井伊大老が病死した」という情報をキャッチしました。

本国では何が起きたのか?
不安を抱えながら帰国してみると、「日米修好通商条約」を決めた井伊大老はテロで殺害されていて、本国の空気は一変していました。

正規の出迎えはなく、
条約は「不平等条約だ!」と非難され、功績は評価されませんでした。

こんなに報われない使節団っていうのも、あったもんなんですね。


作家の司馬遼太郎サンは、「テロは歴史を動かさないが、桜田門外の変は唯一の例外」と評しておられます(確か)

襲撃側の水戸浪士といい、襲撃された側の彦根藩士といい、井伊大老に派遣された使節団といい。

時代の潮目の犠牲者だらけとなった、「桜田門外の変」。

この時代の波は、後に会津の松平容保をも巻き込んでいくことになります。

ほんに、「桜田門外」は歴史を動かしたなと、思わされますねー。