雪が小休止になって、ほっと一安心しております。

「ホワイトクリスマス」かーらーのー「ホワイトハッピーニューイヤー」なんて、雪国からしたら冗談じゃないんだぜw


さて、前回の続きを。


元禄14年3月14日(1701)の午前中、江戸城松の廊下で起きた「浅野内匠頭刃傷沙汰事件」

吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭は、「正気ではなかった」可能性が高そう。

吉良上野介から、どんな仕打ちを受けて恨んだのかがよく分からないし、討ち入った四十七士も、その感情を共有していませんでした。

吉良上野介は、何もしてないなんの落ち度もない仇でも何でもない人となります。

そうであるならば、どうして赤穂浪士は吉良上野介を、切腹覚悟で討ち取りに行ったのだろうか?

これこそが、ワタクシが掲げる「忠臣蔵」最大の謎。

・・・・というところまで、前回語ってみました。


この謎を解く鍵は、刃傷沙汰事件の後、「浅野家は許されることなく改易されてしまっていること」にあります。


この「浅野内匠頭刃傷沙汰事件」より21年前の延宝8年(1680)

「乱心の上で」として公式に記録されている刃傷沙汰事件が起こっています。

内藤和泉守忠勝という人が、永井信濃守尚長を殺してしまったのです。

この年、4代将軍・徳川家綱が亡くなり、その法会が芝増上寺本坊で執り行われました。

警備を命ぜられていた内藤と永井の2人は、元々仲が悪かったみたい。

永井は、老中からの連絡の書状を懐にしまいこんで、見せようともしませんでした。
内藤は「見せろ」と迫りますが、永井はガン無視。

これに内藤が、ついにブチギレ。
脇差を抜くと、驚いて逃げようとした永井の袴を踏みつけ、転倒したところを刺殺してしまったのでした。

裁定の結果、忠勝は切腹させられます

しかし、「まぁ、乱心の上でのことだからサ」と判定され、子孫は御家断絶の憂き目には遭わずに済みました(ただし、減封の上、領地は移されています)


加害者は「乱心だった」から、切腹はさせられたけれど、御家断絶までは処されなかった

この判例に従うなら、(増上寺より殿中の方が罪が重いとはいえ)浅野家が取り潰しになってしまったのは、明らかに罰として厳し過ぎます。

なんで浅野家は、こんな厳しい処分を受けたのかと言えば、実は「浅野内匠頭は乱心してない。正気で沙汰に及んだ」と判断されたためです。

ただし、この判定が事件の真実を伝えているかどうかは疑問。
・・・・という理由は、前回に触れてみたとおり。

そんなことよりも、この判定を下したこと自体が、なんだかアヤシイ。
もしも「乱心して刃傷に及んだ」と公表したら、乱心するような人を勅使接待役に任じた将軍綱吉の恥になります。

いわゆる「任命責任」というヤツ。

それは困る・・・・ということで、本当は乱心だったにも関わらず、「あれは正気だったんだ」ということにして、厳しく罰したのではなかろうか。

という見方がありまして、ワタクシもこれを支持しています。


浅野内匠頭は、乱心して刃傷沙汰に及んだ。

それを、将軍・綱吉が自分の任命責任にしたくなかったから、「あれは正気でやったんだ」ということにした。

こう仮説を立てると、「大石以下は、なんの落ち度もない吉良上野介を、何故討ち取りに行ったのか?」の説明もつきます。


「浅野家の御家再興も叶わないということは、あの刃傷沙汰は正気でやったと判断されたわけですな?」

「主君が正気で切りかかったのなら、何らかの事情があったはずですな?」

「何らかの事情があったのなら、あれは喧嘩ですよな?」

「喧嘩ならば、両成敗でないとおかしいですよな?」

「ご公儀が不公平な裁きをなさるなら、我々が主君の恨みを晴らすまで」

大石らは、綱吉が責任逃れを図ったのを糾弾するために、逆手に取って「主君のあだ討ち」を果たしたのではなかろうか。

命がけの、ぶっ飛んだ、とんでもない風刺です。


「義挙」でも「忠義」でもなく「風刺」だった・・・・とするのは、現代の価値観で事件を見過ぎなんだろうか?

もしかしたら、(大石以外の?)四十七士は、義や忠のためだったかもしれない。

でも、江戸の大衆のハートをつかんだのは、「義」や「忠」の志よりも、この「風刺」的な面が大きかったのでは・・・・と、思うんですが、どうでしょうかねぇ。


まぁ、そう考えると、何の落ち度も無く殺された吉良上野介こそ、たまったものじゃないわけで。

だから、この事件が「テロだ」と非難されるのも、認めざるを得ないなと思ったりしています。

ここが、人間ドラマとしての「忠臣蔵」が好きな身としては、つらい所だったりもするんですが、いやはや・・・・・。