大河ドラマ「平清盛」

 

先週の放送で、第74代・鳥羽天皇が崩御されました。

 

鳥羽院
鳥羽天皇/鳥羽上皇/鳥羽法皇@三上博史様
2012年大河ドラマ『平清盛』より

 

爆発寸前だった朝廷を抑えていた重石・鳥羽法皇が崩御されてしまったことで、戦乱は避けられないものになりました。

 

朝廷・摂関家・平氏・源氏棟梁家が、身内同士で敵味方に分裂。

どの家も救いようのない結果になってしまう「保元の乱」へと展開していくことになります

 

(今日の記事は、譲位後も出家後も、ほぼ「鳥羽天皇」で統一します。ご了承ください)

 

 

ところで、三上博史サンって、「平清盛」で大河ドラマ初出演だったんだそうですね!

知りませなんだ・・・・てっきりどこかで出ているものだとばかり。

 

ワタクシはトレンディドラマは見ないので、大河に出ておられないのならば、たぶん彼を見たのは「孔雀王(1988年)以来(笑)

 

久しぶりに見た三上サンは、アングラ劇団を率いていた寺山修司の秘蔵っ子だっただけあって、見事な怪演ぶりでございましたw

 

「ハゲたら色っぽくなった」だの「鳥羽院は今週も泣いていた」だの「いつもうるうるしているチワワみたいな目」だの「血が・・・・血が、あふれているッ(モノマネ)だのと、この半年間、何度も何度も何度も何度もイジリたおしましたけど、大好きでした(いや、本当だって!)

 

お疲れさまでした!ありがとうございました!

 

もう鳥羽天皇=三上サンとしか思えません!

 

 

・・・・と、演じている役者サンに話が行ってしまいましたが、閑話休題。

鳥羽天皇の話に戻って。

 

 

鳥羽天皇が、どんなことをやらかしたのかは、大河ドラマでも随分と描かれました。

 

父・堀河天皇が早くに亡くなってしまったため、5歳で即位。

祖父・白河院の後見の元、「ただの天皇」として過ごします。

 

二十歳の時、祖父の命令で、わずか3歳の息子・顕仁親王(あきひと=崇徳天皇)へ無理矢理譲位させられます。

実権は白河院が握り続けたので、今度は「ただの上皇」となりました。

 

「鳥羽院の世」が訪れたのは、大治4年(1129年)に白河院が崩御してから。

時に鳥羽天皇、26歳。バリバリの働き盛り

 

 

ようやく実権を握った鳥羽天皇にとって、自分の子なのかどうかが疑わしく、そしてもう子供ではない崇徳天皇が邪魔になりました。

 

そして、愛する得子が体仁親王(なりひと=近衛天皇を産むと、「この子を皇位につけたい!」という野望に駆られます。

 

ここに、藤原摂関家と得子の思惑が絡んできて、

 

1. 崇徳天皇を退位させる

2. 近衛天皇を即位させる

3. 「兄から弟へ」の譲位にする

 

という作戦が実行され、崇徳天皇は譲位させられた上に皇統から外されることになったわけです。

 

なお、崇徳天皇を無理矢理譲位させて、近衛天皇が即位するのは1142年

『鳥羽上皇(治天の君)-崇徳天皇』の体制は、実は13年ほど続いていたことになります。


あの親子が、ともに13年って、意外・・・・?

 

そして、体仁親王は、崇徳天皇の養子として即位するはずだったのを、「皇太弟」として即位させています

 

これは、崇徳天皇に「院政」をさせないための策だったのですが、実はかなり危険な作戦でした

 

というのも、体仁親王は鳥羽天皇が譲位したあとに生まれた子だったから。

 

「天皇の子」ではない、「上皇の子」という、本来なら皇位継承権のない「ただの皇族」が、「皇太弟」として天皇になった

 

これは、それまで皇位継承は絶対無理と思われていた皇族たちに、即位を正当化するための「前例」ができたことを意味するわけで。

 

崇徳天皇を「皇太弟」という罠にハメるというこの作戦は、相当危険なものだったわけです。

 

近衛天皇が崩御すると、「崇徳上皇の系統にだけは皇位を渡したくない」という一心で、後白河天皇を即位させます。

 

ただし、本命は後白河天皇の息子・守仁親王(もりひと=二条天皇)

後白河天皇は中継ぎとして即位でした。

 

男性皇族が、中継ぎとして即位する・・・・そんな前例、たぶんない(笑)

 

鳥羽天皇は、ふたたび「横紙破りな皇位継承」をやってしまったわけです。

 

 

なんで、鳥羽天皇はこんなことを2度もやったんだろうか?

 

それは、ワタクシにも分かりません。

 

祖父・白河院の豪腕振りを見てきて、「自分がいつか『治天の君』になったら、あんなふうに好き勝手やってやる!」と、思っていたのかもしれません。

 

ただ、自分がとんでもないことをしているという自覚はあったようで、

 

「自分が生きているうちはいいけれど、死んだ後は大変なことになるだろう 」

 

と言っていたそうです。

 

現実に、彼が崩御した途端、「保元の乱」が起きてしまいました。

 

あの時、崇徳天皇への私怨を捨てることができたなら・・・・

 

体仁親王や雅仁親王は、平穏な世を謳歌できたのかも知れず。

藤原頼長も、もう少しマシな死に方ができたかもしれず。

 

王家の権威も、鎌倉幕府に取って代わられるほど落ちぶれることもなかったかもしれません。

 

愛する者への愛情も深かったけど、同じくらい憎いヤツへの憎しみも強かった鳥羽天皇。

もう少し何とかできんかったのかなぁと、思ってしまいますね・・・・。

 

皇位継承について、2度も横車を押すようなことをしてしまった鳥羽天皇。

 

実はもうひとつ、何百年にも渡って影響を及ぼす「とんでもないこと」をやらかしているのです・・・・が、それについては長くなったので後日に譲ります。

 

もしかしたら、オタノシミニ。