南海高野線の全通前に郵便物は高野山にどのようにして輸送されたのか・・・ | 鉄道郵便のブログ

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昨日から急に秋めいてきました。

このまま涼しい日が続いてくれればよいのですが、気象庁の長期予報ではまだ季節外れの暑さになることもあるそうです。

 

9月12日の拙ブログの南海高野線の鉄道郵便印に関する記事「右書櫛型 大阪高野間 下一」で疑問として残っていたのは、

『南海高野線が難波駅から高野下駅までの部分開通しかしていないときに、先行して開設された鉄道郵便線路大阪高野線においてはどのような手段で高野山まで郵便物が輸送されていたのか』

ということです。

 

少し長い記事になるので、関心のない方はスルーしてください。

 

⛳ホームコース⛳から望む高野山、

少しわかりにくいですが、黄色で囲んだあたりです。

「高野山」は、固有の山の名称ではなく、和歌山県の北東部で紀伊山地に属する1,000mクラスのいくつもの山とそれらに囲まれた盆地状の平坦なエリアを含む総称です。

その平坦なエリアには金剛峯寺をはじめ多くの寺院がある霊場で、真言密教の大聖地として知られています。

 

一方で、金剛峯寺は中世には広大な荘園を保有し一大勢力を誇ってきました。

しかし、天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州攻めのときに降伏し、豊臣政権の支配下の組み込まれ「兵僧分離」のもと、2万1千石の寺領を保証されてその寺領は存続することになりました。

慶長6年(1600年)徳川家康からも改めて2万1千石の寺領が安堵されました。

この寺領は、紀の川左岸域(南岸側)の橋本市、伊都郡および紀の川市のエリアに及んでいました。

 

明治時代に入ると明治政府は社寺上地令により境内以外の寺領をすべて返還させ、多くが国有地になりました。

高野山一帯は、檜、高野槇などの良材を産する山地が広く分布しています。

明治19年和歌山に和歌山大林区署、高野山に小林区署が設置され、明治38年から伐採が始められました。

このとき、当初の木材の輸送ルートとして、

・木馬道(きんまみち):高野山~椎出(九度山町)

・軌道:椎出(九度山町)~安田島(九度山町)

・水運(紀の川):九度山町~和歌山

が使われました。

 

聞きなれない「木馬道」とは・・・

そりに乗せた木材を輸送する道で、進行方向と直行方向に丸太が敷設されていました。

「国有林」という図書にその写真が掲載されていたので転載します。

(高野山の木馬道ではありません。また著作権の保護期間も終了しています。)

 

同様に「軌道」の事例です。

 

軌道を走った台車(車両)は人力や馬力で曳き上げなくてはなりませんでした。

 

同様に水運(筏流し)の事例です。

 

大正2年木馬道の区間は軌道になり高野山まで軌道が開通しました。

昭和3年には内燃機関車が導入され、人力と馬力に替わって活躍しました。

この「高野山森林鉄道」は、現在の南海高野線の建設にあたっても、資器材を運搬するために活躍したようです。

 

わたしはこの高野山森林鉄道が鉄道が全線開通していなかった期間に郵便輸送にも使われたのではないかと推測し前回(9月12日)の記事を書きました。

その記事をご覧になったブロ友なおさんから「高野索道」について情報をいただき、勉強した結果この「高野索道」こそが郵便輸送を担っていたものと確信しました。

 

「高野索道」は、九度山町椎出(高野下駅付近)と高野山大門との間約6kmを結ぶロープウェイです。

この記事を書くにあたって絵葉書を入手したので掲載します。

 

ロープウェイの鉄塔が描かれていて、右上に「明治45年6月23日 高野索道株式会社開業式紀念」と表示された記念スタンプが押されています。

既存の文献等によると、高野索道の開通は明治44年と明治45年の2種の記述があります。

ここではこの記念スタンプにある明治45年とします。

 

こちらは高野索道で荷物を運搬しているようすが描かれています。

説明文として「山麓の椎出と山上とを連絡し運輸上の重要機関なり」と記載されています。

 

そのルートを現在の国土地理院地図に表示してみました。

 

それでは、「高野索道」による郵便輸送はいつから始まり、いつまで行われたのでしょうか。

残念ながらその期間を明確に記載した資料を発見することはできませんでした。

 

なので、既存の資料を順に辿っていきたいと思いますが、

鉄道の開業と鉄道郵便の開設の状況を改めて整理してみます。

 

1 鉄道の開業

大正4年3月11日  難波駅~橋本駅 開業

大正13年12月25日 難波駅~九度山駅 開業

大正14年7月30日 難波駅~椎出駅(現・高野下駅)開業

昭和4年2月21日 難波駅~極楽橋駅 全線開業

 

2 鉄道郵便の開設

明治35年4月30日  堺三日市線の開設

明治44年4月30日  堺長野線に改称

大正4年4月30日 堺長野線の廃止

大正14年4月1日 柏原長野線を改称して大阪九度山線の開設

大正14年10月1日 大阪九度山線を延伸・改称し大阪高野線の開設

(この時点では鉄道開業は椎出駅(現・高野下駅)まで)

 

3 郵便線路図

次に郵便線路図を入手できたものを対象に古いものから見てみます。

 

① 地図の凡例

・鉄道郵便線路:太い実線(黒白)

・道路郵便線路:細い実線

・鋼索郵便線路:二重の波線 

 

② 大正2年の郵便線路図

九度山郵便局と高野郵便局との間は複数の細い実線で結ばれていて、「道路郵便線路」であることがわかります。道路郵便線路は人や馬などにより郵便を輸送するものです。

 

③ 大正12年の郵便線路図

九度山郵便局と高野郵便局との間は「道路郵便線路」のままです。

一方、となりの奈良県をみると五條郵便局と阪本郵便局との間は「鋼索郵便線路」と「道路郵便線路」との両方で結ばれているのがわかります。

 

③ 大正15年の郵便線路図

鉄道が高野下駅まで開業しています。

・難波駅と高野下駅との間には「鉄道郵便線路」

・高野下駅と高野山大門との間には『鋼索郵便線路』

が開設されています。

 

このことから高野索道による郵便輸送(『鋼索郵便線路』)は、

明治14年10月1日に鉄道郵便・大阪高野線が開設されたとき始まった

と推測します。

 

それでは、高野索道による郵便輸送はいつまで実施されたのでしょうか。

④ 昭和27年の郵便線路図

大阪高野線の鉄道郵便の「取扱便(係員が乗務して郵便物の区分や引受消印等を行うもの)」は、昭和23年8月15日からの鉄道郵便線路一覧表から削除されているのですが、

この昭和27年の郵便線路図には記載されています・・・

おそらく、郵便輸送を鉄道会社に委託する「託送便」としての鉄道郵便線路だと思います。

そして、『鋼索郵便線路』も椎出と高野山大門との間に開設されています。

鉄道全通後においても高野索道が荷物輸送を担っていたという記録があるので、そのことと合致します。

 

⑤ 昭和38年の郵便線路図

『鋼索郵便線路』はなくなっています。

 

昭和35年に高野山道路(有料)(現在は無料;国道370号、480号)が開通し、高野山への物資輸送は自動車輸送に切替られたことに伴い、明治を代表する二つの輸送ルート(高野山森林鉄道と高野索道)は廃止になりました。

この郵便線路図には「自動車郵便線路」(太い黒色実線)が記載されています。

 

このことから「高野索道」による郵便輸送は、

大正14年10月から昭和35年まで実施されたものと推測します。

 

最後にオマケです。

高野山への参道(徒歩)は江戸時代に「高野七口」と呼ばれる7つの街道が成立しました。

そのうちの一つ、高野山大門に通じる街道は「町石道」と呼ばれ、山麓の慈尊院(九度山町)から、鎌倉期に建てられた1町ごとの町石を拝しながら大門に至る表参道です。

こんな感じの参道です。

 

 

 

参道の横には紀伊高原ゴルフクラブのティーイングエリア・・・

紀伊高原ゴルフクラブにおいても、前ホールのグリーン終了後にティーショット用のクラブを持ち、参道を歩いてこのティーイングエリアに来るルートになっています。

(ティーショットは池越え、乗用カートはリモコン操作で別ルートで池の前方に送り待機です)

 

ゴルフ場の画像に始まりゴルフ場の画像で終わりました(笑)

長々とした記事を最後までご覧いただきましてありがとうございました。

最後に貴重な情報をご教示いただきましたブロ友のなおさんに感謝申し上げます。