母親が太腿の骨を折って人口の股関節で接合する手術したあと、術後の状況のレントゲンを見せてもらった。
腰から太腿までのアップで、うっすらとボディーラインが写っている。
「やぁねぇ、こんなにお尻がたれて。」
と母。
入院の荷造りを頼まれたときも、まだ立ち歩きもできないのに、外出用のワンピースを頼まれたり、化粧品周りは事細かに指示されたり。炊事や掃除のことはわかるけど、さすがに化粧品には疎いのでなかなか困ったよね。
この歳になってもそういう部分が気になるものなんだな、っていうのは男の子側から見た正直な気持ち。
でもまぁ、この歳っていってもまだ76。兄を産んだときはまだ24、僕を産んだときはまだ26だったんだな。26なんて、まったくの小娘じゃん。
そんな若い頃に一生懸命子育てをしていた母を、今は素直に素敵だと思う。
僕は母を、母としての顔しかしらないけれど、女性はいくつになっても女なんですね。
そして、母の目に映る僕たち兄弟は、きっとどこかで若い頃の父と重なりあってきているのだと、そんなことを思う。

さて、節季は「白露」。
白露という節季はあまり耳に馴染まないですが、「陰気ようやく重なり、露凝って白し」という意味だそうで、要は、秋がいよいよ本格的となっていく時期、ということ。
もし季節に性別があるとすれば、9月にはなんとなく女性的な印象があるのです。 
気まぐれに日によってころころと佇まいを変えていくのだけど、どこか大らかで、すべてを包み込むようなやわらかさ、そんなイメージっていうか。 
いや、正確には逆かな。 
大人の女性から漂ってくる匂いが9月のイメージがするから、9月のイメージが女性的なのだ。 
言い方を間違えると世間の女性に怒られそうだけれど、つまり、男から見て、大人の女性はみんな、あらゆる努力をして9月に留まろうとしているように見えるのだ。決して嫌味ではなくね。 

夏の余韻をほんの少し残しつつ、ギンギラの真夏なんかよりずっと優雅で過ごしやすい秋。 
そして艶やかで実り多い秋。 
鮮やかにきらめいている生命のほとばしりとしての秋。
自分なりの美しさをちゃんとイメージして心も体も整えようとする女性たちの意思の強さに、男はいつも負けっぱなし、っていう気がする。

優雅で実り多い秋の女性のイメージの音楽といえば、例えば矢野顕子さん。

峠のわが家 / 矢野顕子

「夏の終わり」とか「海と少年」とか「ちいさい秋見つけた」とか、ちょうどこの季節っぽい曲もたくさん入っているこのアルバム。「David」や「Home Sweet Home」のようなやわらかい曲の一方で「そこのアイロンに告ぐ」とか「おてちょ。」みたいなアバンギャルドなジャズ寄りの曲が違和感なく並んでいたり、自身のアイデンティティーの宣言のような「The Girl Of Integrity」みたいな曲もあったり。
ほんわりと包み込んでしまうような母のような音のやわらかさ温かさと、思い立ったらやれるだけやっちゃうわ的な自由さ、奔放さ、それを支える芯の部分での自分への確信の強さ。
決してグラビア的な意味では美人ではないけれど、この方の美しさは年を重ねてもまるでかわらない。そもそもが誰かに媚を売ったセクシーさじゃなく、人としての魅力からにじみでる女らしさが素敵な人だからかな。
そして、ある程度の年齢を重ねた女の人から感じる美しさも、そういう類の美しさなのかな。
優雅、うん、日本語で言うとちょっとニュアンスが違うかな、いわゆる英語で言うところの“グレイス”。そういう美しさ。
そういう美しさはきっと年齢とは関係なく、衰えないんじゃないか、と。


まぁ、とにもかくにも「白露」。 
まだまだ暑い日もありながら、日ごとに和らいでゆく日差し、日ごとに高くなってゆく空。 
夜にもなれば涼しい風、虫の声。
優雅な秋を楽しみたいね。