「幕府の外交は無能ではなかった!?」ここまで分かった日本史! | シティハンターのブログ

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泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず

日本史の授業で必ず紹介されるこの有名な狂歌は、1853年(嘉永6)4月、相模国(神奈川県)浦賀沖にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリ-の率いる4隻の艦隊が突然現れ、なすすべもなく慌てふためく幕府の姿を、上物の宇治茶の銘柄である上喜撰に蒸気船をかけて揶揄したものとされている。

従来の日本史授業では、オランダから警告を受けていたにもかかわらず、具体的な対策を講じることもできず、「粗法」としての「鎖国」をただ墨守する無能な幕府という見方が教えられてきた。

ところが近年の研究によって、決して幕府は世界に背を向けていたわけではなく、常に最新の世界情勢についての情報収集に努め、また外交上必要な国際法についての知識も蓄えていたことが明らかになってきている。

その一つの情報源が、唯一のヨ-ロッパの貿易相手国だったオランダによる「風説書」である。ペリ-の来航もこの「風説書」によっていち早く幕府に知らされていた。

そして幕府はこうした情報に無策だったわけではなく、洋式砲術の採用など当時としては可能な限りの対策をとっていたのである。

さらに、条約交渉に際して応接掛に任じられた林大学頭(復斎)や町奉行の井戸覚弘らは、タフ・エゴシエ-タ-ぶりを存分に発揮してペリ-の脅迫や虚言をことごとく論破した。

そして、ペリ-の武力を背景とする強圧的な態度に屈することなく、交渉によって戦争を回避したのである。幕府とその担当者の高い外交能力は大いに評価されるべきだろう。