昨今、社会のマラソン熱が相当高くなっています。
日曜日に行われた残酷マラソンは、私は参加しなかったのですが、2700人のランナーが快走され、知人友人もたくさんチャレンジされ、その感動を届けてくれました。
私も、ここ数年、ウルトラマラソンと呼ばれる100キロのマラソンに挑戦するようになって、自虐的に変態と呼んでいますが、まあ一般的な人からすると、100キロ走るような人はクレージーの何物でもありません。
ですが、なぜ、がそんなクレージーなことに参加するようになったのか?なのですが、おそらく社会がどんどんと感動が薄くなる社会になってきているからではないかと思います。
ですが、なぜ、がそんなクレージーなことに参加するようになったのか?なのですが、おそらく社会がどんどんと感動が薄くなる社会になってきているからではないかと思います。
昔の人からよく
『貧しく、食べ物を手に入れることも困難な時代、初めて〇〇を食べたことが忘れられない…』
そんな話を聞きます。
それは、お肉なのかもしれないし、スイーツかもしれないし、今では、どこにでも普通に売られているそういった品々を口に運んだ感動のことを今目の前にあるかのように、熱く語ってくれたりします。
今を生きる私たちは、それらのものが、当たり前のように手に入ってしまい、それらのことをどれだけぞんざいに扱っているでしょうか…
モノにしてもそうです。
今テクノロジーがどんどんと発達し、便利さをたくさん享受できる社会になればなるほど、私たちは目の前にあることにときめきや感動を覚えなくなってきました。
こういう時代背景が、そういった苦しくつらいマラソンへの人を向かせているような気がします。
リアルな困難、貧困、戦争…そんなことはどんなことがあっても経験したくありませんが、私たちがマラソンで経験できる困難は、とても安全なもので、いざとなれば、そこで立ち止まり断念するこもできます。
そういうある意味バーチャルな困難を経験できる機会を得ると、それを乗り越えたときに、生きてて良かったー、みたいな疑似的に生きることへの感謝みたいなものを感じることができるからなのだと思います。
おそらく、また5年もすると、感動というところへのアクセスはさらに遠のいていくと思います。
だから、いま日々感じることをかみしめながら、全力で生きていきたいものです。