以前オリンピックに出場した選手が、日本代表のユニフォームを着崩して、なおかつインタビューの所作が悪く、ボコボコに叩かれたことがあったのを思い出しました。
そして、この大会においては、福士選手の完走後のインタビューで、またひと騒ぎ。
私の中では、前者はNGだけど、福士選手はOKかなぁ。
そして、また吉田選手の号泣シーンをみていろいろ考えさせられてしまった。
オリンピックがなぜ、国を代表して出場する大会なのか…。
サッカーなんかだと、クラブワールドカップがあったりして、ナショナルチームとは違うところで世界一を争うものがあったります。
でも、クラブワールドカップとて、地域を一つ軸に考えたクラブであるから、地域ブランド代表ということもいえるだろうし、また個人競技とて、まったくの個人名で出場している選手というのはあまりみたことがありません。
個人も、スポンサーさんのところを所属先にしていたりして、『無所属』っていうのを聞いたことがない。
やっぱり、どっかの何かに属しているわけですよね。
つまりいくらスポーツは、個人がパフォーマンスを発揮するものとは言っても、何かを背負ってみんな戦っているということですね。
だから、背負っているものを常に意識した言動が求められるというのは仕方のないことだと私は理解しています。
日本代表選手においては、各スポーツ競技団体であるナショナルチームに所属し、そして、それを束ねる体育協会だったりとか、オリンピック委員会とか、その選手が活躍するための下地をつくっている団体があったりしているわけです。
選手たちが普段目にすることもないけれど、そのバックでさまざまな庶務をつかさどっているところもあるわけです。
だから、やっぱり、オリンピックに出場する選手たちは、それを踏みにじむような言動には厳しいバッシングが浴びせられるし、そして、選手はそういうものも背負って戦うから、プレッシャーを感じたりするんですね。
オリンピックの表彰シーンなどで、そろいのジャージを着てセレモニーに出てますよね。
もちろん、服装規定など厳格なものが決まっているので、好き勝手なカッコウで出ることは許されていないわけです。
それは、日本というものを背負わされている証もあるし、逆に『暑いから』とか『色がきらいだから』とか、個人のし好が許されていないのも、そういう背後にある『何か』があるからです。
よくよく考えてみれば、オリンピックの選手のみならず、私たち庶民も、何かを背負い、何かに属しています。
それは、企業かもしれないし、地域や国家かもしれない、少なくとも家族という単位はあって、『お父ちゃんやおかあちゃんの顔に泥を塗らない』みたいなものが、どんな人でもあるわけです。
個は個にあらず…ですね。
なぜか福原愛選手や、吉田沙保里選手のコメントが気になっています。それは日本というとてつもなく大きなものを背負っていて、それに自分の精一杯で応えたいという一日本人のプライドを感じるからなのでしょうか。
オリンピックも残り日数もわずかとなってきました。
テレビで中継をどっぷりみることができない日々ですが、多くのアスリートからさまざまな勉強をさせてもらっている2週間。
もうすぐ世界最大のイベントが終わるというのもなんとなく寂しい感じがしてきました。