旧貝島 新菅牟田坑 動画 | 鶴嘴さんのブログ

鶴嘴さんのブログ

全国の旧鉱山や旧炭鉱の調査を行っております。

今回は 福岡県 宮若市 磯光地区の旧貝島 新菅牟田坑の再調査を行いました。


この磯光地区 炭鉱の歴史は、

明治23年12月、
選定鉱区の制により大之浦、菅牟田の西鉱区を拡張する
(大之浦532,596坪、菅牟田228,267坪)

明治28年春、
香井田村 大字磯光 小字本田に斜坑を開削し、冬着炭する
後に菅牟田第一坑と呼ぶ。

明治34年8月、
菅牟田第二坑斜坑を開削する。
(約182mで着炭)

明治35年10月9日、
菅牟田第三坑竪坑の開削に着手する。

明治36年10月、
菅牟田第四坑の開削に着手する。

明治36年10月、
菅牟田病院を新設。

明治37年1月27日、
磯光より菅牟田炭鉱間の専用鉄道敷設に着手して 敷設工事中に九州鉄道に権利を譲渡する。

明治38年4月10日、
菅牟田第五坑の開削に着手する。

明治44年10月1日、
第三坑 南北竪坑の開削の為、地鎮祭を行う。

大正9年5月26日、
納屋という名を廃止し、鉱夫社宅と改称。

3種の社宅に分ける、
甲号社宅   模範、職工
乙号社宅   雜夫、
丙号社宅   ?

大正9年10月、
炭鉱直営合宿所を設立する。
(この合宿所=寮)

大正11年11月、
第一坑新斜坑を開削に着手する。
(後の大之浦第四坑)

この時期、
配給所 各鉱に会社直営の配置所を置く、
また 炭鉱管理下で市場を設けて肉、魚、野菜を安価にて
販売する、


大正13年5月1日、
桐野、菅牟田、満之浦の3鉱業所を一括して大之浦炭鉱と改称する。

大正6年3月29日、
第四坑を閉鎖する。

大正12年7月3日、
第三新坑 山張層に着炭する。

大正13年9月23日、
新三坑を東三坑と改称する。

大正13年12月5日、
西五坑の地鎮祭を行う。


(中文省略)

昭和23年10月25日、
東部開発に関する特殊工事指定申請書を九州石炭局長宛に提出し、開発を本格化する。

昭和28年12月17日、
東部開発工事が竣工して新菅牟田坑と命名。

昭和28年12月28日、
二本の竪坑から第一水平坑道を掘進してこれを根幹根幹とし、この第一水平坑道から分岐して第二水平坑道によって西五坑と連絡し、第四水平坑道によって東三坑と連絡する。


大まかに このような流れである、
長々と年表を並べてもと思い簡単にでは あるが記載した。



さて この地区を歩くと、

払い下げの炭鉱住宅や、

削られては いるが高く大きなボタ山も残る。

北区の充填ポケットがあっただろう場所には、



このような遺構が残っていた。

少なくとも 痕跡が残っていた。


そして このような話も聞きました 東部開発が命取りとなった…

しかし 自分の勝手な想像ではあるのだが何かを改善し、
良くしようと考え工事を行ったのではないだろうか?

その行動が逆効果になるとは 時代というのは 残酷だと感じた…



この新菅牟田坑 再調査の動画は こちら、
                             ↓