足の速い敵が街道沿いに逃げることがわかっているから、藪中の近道で先回りする。これは時間を先取りしている。つまり人は時間に対するメタ視点を持っていることは確かなように思われる。人に限らず、生き物ならばある程度この観点は持っているだろう。そうであるならば、さらにメタ視点を持つこともできてしまうのではないか。私は散々無限背進が矛盾にしか至らないことを言いながら、むしろそれは正しい結論なのではないか。すなわち時間とは無限背進することが当たり前の存在なのではないか。これをどう解釈するか。あるいは言い訳を考えて正当化するか。

 そうではなく、動きに対するメタ視点を時間と呼ぶ。ここに無限背進はない。これでどうだろう。もし未来に行ける、あるいは過去に戻るという機能がどこかにあるなら、必ずそれを利用する生き物が登場したと思う。そうなってはいない。ということは、時間は抽象的なものであり、直接の関与はできないということで間違いないのではないか。移動速度を上げるということも、確かに時間操作の一種だ。しかしそれは物体の動きに対する関与である。時間という言葉に実はいろいろな層の観念が十分に色分けされず放り込まれているが、その性質が見極められないまま、勝手に組み合わされて使われてしまっている。内的時間意識と、対象のものの動きに関する一つの因子である時間はそもそも別ものかもしれない。ああ、何とももどかしいのは、この点についてはたくさんの頭の良い人たちが様々の説を述べていたのだろうが、もはや参照がかなわないことだ。しかし、下手に意見を聞いてしまうと途端にそれに引きずられてしまいそうで、無前提に考えられることはやはり良いことなのだろう。

 私は時間について考えるのではなく、無限について、この場合には永遠ということを考えていたのだった。そして最初の直感は、時間と永遠は無関係かもしれないということなのだ。そのことはもう少し考慮が必要かもしれないが、もう一つのほう、有限の中に無限は入りきらないということは、証明はできないけれども確実だと思う。要するに球体は無限を内包できないし、線分の中に無限の数の点は打てない。そもそも点というものが存在しない。数学で証明されているといわれそうだが、あれは前提として無限小でゼロ次元は存在する、線分は無限個の点の集まりであるということを前提としているのであって、そんなものが現実世界にあることは証明できるわけがない。ないと言っているのではない、あることが証明できないというのだ。

 部分的なもの、すなわち有限の存在は無限には届かない。有限のものは形を持つ。形があればいずれなくなる。したがってそれは永遠に存在し続けることができない。私たちはこの点で、抽象物に対する偏った思考をする。つまりそれらをいつまでたっても変化しえないものととらえたがる。AはAであり、その性質をどのAも持っていて、不変であると感じる。いちどそういう意味を付与されれば、宇宙の果つる時までその意味を持ち続けるだろうか。これは否定的に考えたくなるかもしれないとして、カエサルは紀元前のちょうど百年に生まれたのだが、その事実は事実として、彼がいなくなっても変化しないと考える。これは真理という意味においてそうなのであるが、人類がいなくなってもそのままなのだろうかと考えると、これは認識論内での出来事に過ぎないのかもしれない。つまり不変であるという意味を人によって与えられているだけであって、その意味が外れたら混沌の中に没するかもしれない。何しろ、すでにカエサルが存在しないのに、その真理値だけは残り続けるとはいかなる意味なのか、私にはよくわからないのである。