それは柑橘系の香りを思わせる朝の光がいたずら猫のような手で顔を撫でて、心地よさに思わず目を開ける、そして誘われるようにさまよい出て朝霧の澄んだ軽さを胸腔に満たす、その瞬間より始まる全ての夢の中の夢。空は薄青く、 樹々はほんのかすかにそよいでいる。風にあおられるのではなく妖精が取りすがってかき乱していると思える。信じられるだろうか、世界は黄昏に向かっているのだ。それゆえの平穏がある。メランコリックと言いたくなるが、日本語は不思議だ、メランコリーは退廃的ではあるが優雅さも漂うが憂鬱と書くとひたすら病的になる。黄昏とは何のことだろう。それはすべてが単一化に向かうという意味である。ものみな融合し一ㇳ色に染められやがて暗闇の中に没してゆくその残響のことである。

 私は母の気配に見送られてこれから学校に向かう。仕事だったかもしれない。どちらでも同じようなものだ。ただ生活の懐かしい感触だけがある。扉から庭に抜けるところに蜘蛛の巣があった。それがここ数日破れたままになっている。主がいれば半日と絶たず修繕するので、季節の変わり目に負けたということだろう。道沿いの、きれいに刈り込まれた生け垣の並ぶ落ち着いた住宅街は庭も手入れが行き届いていて、今にも誰かがそこからひょこりと顔を出しそうだが、不思議に静まり返っている。蕎麦屋がありせんべい屋がある。クリーニング店の幟が出ている。児童公園に子供はいない。その向こうに見える、どこかの金属会社の社宅横のテニスコートにも、ネットはきつく張られているが練習する人はいないようだ。遠くにクレーンが空を向いて吠えているように見える。しかし何も完成しないだろうし、すると操作するものもいない。国道沿いにはねじり棒の理髪店がある。数日前まで壊れかけて二階の壁部分がブルーシートで覆われていたはずの家は元に戻っている。敷地の隅に屋敷神が昔のまま残っている。どの家にも神庫があるらしい。これは、少なくとも愛されているのだろう。人は抽象的な逆説を生きるよう強いられた存在であるに違いない。鳥は、馬はどうなのだろう?  半分くらいかもしれないが、人に慣れすぎた連中はもっと低いのだろうか。夢は、死者が集まる空間であるという。昔はいぶかしく思ったものだが、今は自然に信じている。簡単なことで、すでに死んでいる人物しか登場しなくなったからだ。おそらく、消息の知れない懐かしい顔も、もういなくなっているのだろう。

 完璧に整った、しかし生命の気配が消えた、美しい廃墟。空疎な秩序。

 私は何を見せられているのだろう。誰の望みなのか。なぜならこの記憶は私のものではなく、世界が自らを表現しようとしたものだからである。人は、おそらく望まれてはいない。そして一つとても気になることがある。死者の集う空間であるこの夢に誰も登場しないということは、私だけが死んでいるということか?