現在の人類の常識的見解では、単に理屈によって、宇宙は有限であることになっている。逆に、その理屈は有限の中に無限があると言いたがる。不思議な転倒だ。宇宙は限りある存在であるとしつつ、手の平の上に無限があるとする。これは全くのところ、己を神に同一視した驕りからくる思考ではないか。これは西洋文化の、正しいと思えるくらい魅力的な精神分析なので、肯定してしまうのは危険かもしれない。精神分析は、たいてい疑わしい。ペリー来航はアメリカによる日本への精神的レイプであり、そのコンプレックスがいまだに続いていると述べたある精神科医の説がかつてもてはやされた。これはたとえ話であり比喩であろう。またある言論人は自分への批判は嫉妬からくるものであると述べるが、これは万能理論である。ルサンチマンは世の中のほとんどの事象を説明できてしまう。バスチーユ襲撃は持たない者のひがみから起きたと言えば、そうかもしれないがそれで当時の社会状況を分析したことにはならない。社会不正をただそうとする意見に、それは貧乏人のやっかみに過ぎないと言ってしまうことは、一面で正論だが乱暴だ。

 だからこの場合動機はどうでもよい。しかし現実的に考えて、十センチの線分の中にいくつもの「無限大」が含まれているとする一方で、この広大無辺としか言いようがない、少なくとも人の力では大きさの測れない宇宙全体が有限であると言い張ることには不自然さがありはしないだろうか。その転倒を可能にする言語トリックを楽しんでいるだけなのか。

 科学上の問題について考えなくともよいと思っている。この態度自体がおかしいと言われる可能性はある。宇宙が無限かどうかは、どう考えても科学しか論じられないテーマに見える。たとえばオルバースのパラドックス、つまり宇宙に星が均等に広がっているとすると、どの方角を向いても必ず遠くの星が背景にあるはずだから全天的に光っていなければおかしいとする説とか、遠くの銀河宇宙ほど赤方偏移が大きいのはなぜかとか、これらの問題は、宇宙が有限であり、またはビッグバンを肯定すればないものと見做せる。宇宙が無限であるということであれば、いずれは解決が要求されるかもしれない。

 しかしそれらは宇宙が限定的であることから発想された解決だ。だったら、無限であることから別の解が出せるだろう。例えばビッグバンを否定する宇宙論の一つがプラズマ宇宙論だ。ビッグバン宇宙論では宇宙の仕組みは全面的に重力によって説明される。プラズマ宇宙論というからには、もちろんその仕組みが電磁力に置き換わる。直感的にとらえて、銀河系の渦巻き型が重力の作用で出来上がるということは難しい。しかしプラズマ流ならばかなり実現可能のように思える。これは余りにざっくりした感想だが、もちろん当の諸論文を読めばちゃんと書いてある。これを全面的に信じるわけではないし、信じると言えるほど理解したと言う心算もないが、ビッグバンは全宇宙に対する表現ではなく、無限の空間の中の、局所的な小規模爆発であると結論している。

 もしそれが間違いであるとしても、例えば光は波であることになっている。波であるものが数億年も旅をして波長を変化させないということがあるのだろうか。そういうことになっているけれど、なんとなくおかしい話ではないか。いや、これは余りに素人くさい感想と言われればそうなのだが、例えばこれを月と地球の距離で実験して確認できたとして、銀河間規模の距離での実験は無理だろう。

 要するに、手持ちの思考の枠組みによってあれこれ検討するのが実情だ。人の観察するある事象が、無限を前提としたときにはそれなりの解が、そして逆の場合にもそれに従った解釈が出てくる。だから、その事象をもとに無限か否かを証明することはできないのではないか。