昨日最初に書いたことは、こうだった。人は、全く道理の通らぬような理屈を開陳しながら、実は誰も気づかぬ真実を打ち抜くことがあるような、不思議な生き物である。これは天の配剤としか言いようがない。

 この文章を宙に浮かせたままだった。意味は、数学上の無限論とキリスト教的な宇宙観とのあるつながりを感じていたところから始まる。ジョルダノ・ブルーノは「宇宙および諸世界について」で宇宙が時間的にも空間的にも無限であることを述べている。そのうえで、宇宙に無数の世界があるが、それぞれが独立して無限であると言っている。無数の世界とは、太陽系以外の恒星にも惑星があるということで、それぞれに人類がいると説く。

 また、スウェーデンベルクにはEarths In Our Solar System Which Are Called Planets, and Earths In The Starry Heaven Their Inhabitants, And The Spirits And Angels Thereという、長い題名の本がある。遺稿をまとめた本などもあるだろうから、本人のつけた題名かどうかは知らない。この中で、空に輝くあまたの恒星には地球のような惑星があり、その各々に人が住むと書いている。これはジョルダノ・ブルーノの世界観に似ている。二十世紀になって、オラフ・ステープルドンという作家も、「スターメイカー」で同じような世界観を展開する。

 無限の内部に無限が存在する。そういえば、多世界解釈というものが二十世紀物理学の一つの解として出されているが、宇宙は無限に分岐しつつ、それぞれが閉じているがやはり無限であるということになっている。ヴァーチャルリアリティで言われる意味とは別の、メタバースというやつだ。もちろん本家が宇宙論のほうである。閉じているが無限とは、地球の表面は限られた面積だがどこまでも進めるように、三次元的に閉じていても二次元としては無限である、そのように、三次元の宇宙も四次元の中で閉じていても無限なのだという理屈だ。

 ジョルダノ・ブルーノはなぜコペルニクスを称賛するのだろう。現代人の科学的感覚では当たり前のことに思えるが、ブルーノは少なくともキリスト教徒としての妥当性を第一に考えるはずである。当たり前と思うことが、実は宗教を引きずってしまう? 逆ではなくて。 

 コペルニクスは地動説で有名で、それはキリスト教義に背馳する考え方であるということだが、少なくとも宇宙の中心に太陽を置いた、つまり人類だけが神の恩寵に与るという弁解だけは残しておいた。ブルーノはそれを取り払ってしまった。ということは、彼の思想においてキリスト的なものは残っていない。まあ、宇宙の大きさがが神の偉大さを示すとは言っているが。

 地球のほかに高度の生命体が存在するという考え方は、一見当たり前だ。しかしそこにいちいち「無限」という概念を引き込む必要があるだろうか? このあたりのことは、何か、キリスト教特有の思考がありはしないか。数学的な無限の考え方も含めて。

 たとえば有限の長さの線分上に無限個数の点を打てるか。できるとするのが数学であるかもしれないが、もしかしたら不可能ではないか?

 なぜなら、点は無限小であることが前提だ。そんな量はない。長さがゼロであるとするという考えもあるかもしれないが、それはもはや長さとは言わない。

 これは全く無関係の概念の組み合わせ(つまり点と線だ)で「無限大」を演出しているのではないか。無限大であるためには、その構成要素が一定の量を持つ必要があるだろう。単純に言えばゼロをいくら足していってもゼロであると、肝心の数学自身が答えるのだから、点が無限の数並ぶという考え方は最初から矛盾している。

しかし宇宙に散らばる各人類が無限であるとか、宇宙は閉じているのに無限でしかもそれが無限に分岐するとか、どこか似たようなところがないだろうか。