主観性ということを、クオリアとか私だけの見方とか、普通はそういう方向で考えるものだが、もしかしたらむしろ座標の一点かもしれないと考えた。つまり時間と空間のここだけという意味。それだと、一見科学的世界観の一部と思うかもしれないが、実は全然違う。全く逆に、世界があって、世界全体から見ての一点ということになる。ただ、世界から見ての一点とは、どう考えても言葉の綾としか受け止めてもらえそうにない。何事にせよニュアンス頼みの表現になるのは仕方がない(言葉はすべてメタフォーであるという本もいつか読んだ記憶がある)のだが、それは自分でも把握できていないからではないという気もする。

 科学的世界観の場合の絶対空間というのはニュートン力学であろうと思う。それでこそ、宇宙の中の時空間的な一点が絶対であることが意味を持つ、とされる。それは単純に、相対的ではないということの強調になるからだ。

 ひとつの重要な意味があるだろう。つまり点は場所であって、観念的な無限小の存在ではない。二次元は存在しないけれど、羊羹の切り口は存在する。これが全体論、つまり何かを問題にするときには常にそれを含む全体が問われているということだと言うとして、伝わるのか。とても比喩的ではあるが、「人が数学的な思考で点をとらえると、そんなものは存在しえないが、世界が考えて点をとらえるなら、それは単なる位置であり、正当化される」ということでどうだろう。

科学は、日常的な規模の大きさから、全体を志向する上方向へも、部分を腑分けする下方向へも、ある程度考慮に入れる。つまり極論に走らない限り、たいていは健全な思考をすると言ってよい。その極論の一つは宇宙論であり、もう一つは量子論ということになる。そして現状、どちらも見事なまでに間違った思考をしている。もちろん、この意見が人々に認められているとはいいがたいことは認める。これは、双方向からの見方ができないからなのかもしれない。宇宙を上から見ることはできない。

 宇宙が全体として切り離しのきかない一つの存在であるという考え方は、なかなか人間には困難なのだろう。宇宙が一個の人格的な神そのものであるという考え方もあるが、その場合でも、ひとりの人間として超越的な神を志向するのであって、神の視点の側から一人の人間を考察するのではない。私たちが必要としているのは、この正しい意味での神の視点であって、従来言われる客観性ではない。

 今、私たちが必要としていると書いたが、本当は違うのかもしれない。人間にまつわるいろいろなことは、間違った前提でも大体間に合う。もし正しい理論が生活するうえで必要不可欠ということであれば、数学も科学も技術も持たない、古代の人類がここまで発展できるはずもない。現代人も、それほど確かな知識を持っているわけではない。それでも生活上はあまり困らない。相対論も量子論も進化論も大元の所で間違っているのに、人類の思考の蓄積はとまらない。不思議と言えば、これほど不思議なことはない。

 だが純粋に思考の場で語ろうとすると、形而上学的な領域に踏み込む。形而上学とは、存在論のことに他ならない。ただし、存在論と科学との関係は、いまだに微妙で、明らかにされがたい。私みたいに単純に科学的思考は根こそぎ間違っていると言ってしまえば簡単だが、もちろん何の解決にもならない。

 今のところ、存在論が科学との関係で問題になるとしたら、その信条のせいで科学理論にゆがみができる場合のみではなかろうか。ひとつ顕著な例は、量子力学のコペンハーゲン解釈に対しアインシュタインその他が示した拒否感だ。あれはひどく単純化すれば「存在論として納得いかない」というものだった。間違っていたのはアインシュタイン側とされるが、それは半分だけ当たっている。ここで、ボーアやハイゼンベルクの考えをいまだに誤解する向きが多いが、彼らは素粒子が数学的実在そのものであると言ったのではない。つまり存在論の主張ではない。実験を説明する唯一の解が虚数を含むのなら、それはそれとして認めるほかはなく、存在論に踏み込むことを避けるのが正しいとしたのだ。

 逆にコペンハーゲン解釈を存在論として祀り上げ、日常の現実をことさら奇怪で幻想的なものに論じたがる人がいる。それも誤りだろう。つまり彼らの側も理論としては間違っているのであって、研究方針だけ正しい。

 一部の哲学者が唯物論を否定するのは、脳科学や進化論のように極めて先鋭的な局面において、唯物論に固執する限り正しい理論にならないという彼らなりの考えがあるからで、言いたいことの重点は存在論よりも理論の整合性の方にあると思う。新たな存在論を提供した部分は大体において失敗している。

 いずれにせよ存在論は、ある分野の理論発展のためにはさして役には立たず、むしろ邪魔にしかなっていない。ではそれは、人間存在の根源の謎に迫るという、それ自体のためだけに論じるのが正しいのではないか。そしてそれは、大変傲慢のようだが、科学を考慮すべきではない。