幕末のターニングポイントは文久三年八月十八日の政変
越前・福井藩主 松平慶永(よしなが:春嶽)のイメージが『福井県文書館』の文献で変わりました。15代将軍慶喜の協力者であったと思っていました(注『引用』)が、「幕吏に人材がいないから、今後は朝廷が裁断の権を掌握し、賢明の藩主に国政参与を命じ、役人も広く諸藩から登用する」と、文久三年(1863年)、朝廷・幕府に建言し、薩摩藩(慶応3年・1867)より4年も早く「農兵を含む 4000 の兵を率いて、前藩主
春嶽と藩主茂昭 以下藩士一同が再び帰国しない覚悟で上京し」といったん決定されました。
結果的には、「文久三年八月十八日の政変」前の7月、計画の中止は決定的となりました。
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『引用』 徳川慶喜 評伝 大江志乃夫 85ページ、一橋慶喜を13代将軍家定の継嗣(けいし)に擁立
しようという計画は、公式には、12代将軍家慶(いえよし)の喪が発せられた1853年(嘉永6年)7月
22日に、松平慶永がひそかに島津斉彬(なりあきら)にはかったことにはじまるとされている。
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2019年2月20日、覇道と王道(13)のブログに「人物評・松平慶永」の項に、『291ページ、越前藩では8月18日の政変(文久3年(1863)8月)を機に藩論がくつがえり、横井小楠は福井を去って熊本に・・・』とあります。また、『289ページ、朝廷の召命(10月13日の藩主の上京を命じた)に応じた「松平大蔵大輔(慶永)は11月8日を以て入京し、岡崎の藩邸に入る、是亦(これ また)兵士を従えざりき」と、これまた武力抜きの上京であった(徳川慶喜公伝)。・・・この事情が分かりました。
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○ 福井藩の挙藩上洛計画(文久3年(1863)5月)の挫折。
○ 文久三年八月十八日の政変(三条実美(さねとみ)らの)七卿落ち。
○ 孝明天皇宸翰(こうめいてんのう しんかん)(文久三年十月九日)会津藩主・松平容保(かたやす)へ
下賜。
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【有為転変】(ういてんぺん)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書
この世のすべての存在や現象は、さまざまな原因や条件によって常に移り変わるものであり、
少しの間もとどまっていないこと。また、この世が無常で、はかないものであるたとえ。▽もと仏教語。
※ 三条実美(さねとみ)は、孝明天皇の「暴論を疎ね(そね:いやがって遠ざける)状態の攘夷(じょう
い:外国との通商反対や外国を撃退)運動のリーダーが、(維新)明治天皇の時(明治4年の廃藩置
県の後)明治政府トップの新設太政大臣に就任しています。
正に【有為転変】(ういてんぺん)を体現しています。
※ 松平容保(かたやす)は、孝明天皇への「忠節(主君への忠義をかたく守ろうとする気持ちが」が、
誤算に成ってしまった。
『故事ことわざ辞典』
無理が通れば道理引っ込む(道理に反することがまかり通る世の中なら、道理にかなった正義は
行われなくなるということ)
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文久三年八月十八日の政変に繋がる「朝廷内の暴論」に対し、会津藩主・松平容保(かたやす)に内命を下した孝明天皇は感悦(かんえつ:感動・悦び)の天皇直筆の書状を下賜(かし)された。
松平容保への宸翰 (10月9日、松平容保は参内し、宸翰(天皇の直筆の書状)と御製の歌を賜った。
「 堂上以下、暴論を疎ね(そね)不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、
すみやかに領掌(りょうしょう)し、憂患(ゆうかん)掃攘(そうじょう)、朕の存念 貫徹(かんてつ)
の段、まったくその方の忠節(ちゅうせつ)にて、深く感悦(かんえつ)のあまり、右一箱これを遣わす
もの也」・・・
とあり、容保(かたやす)は終生肌身から離さなかった。(遺品から出て来ました)
疎む:いやだと思う。いやがって遠ざける。
領掌:りょうしょう:1 受け取ること。2 領地として支配すること。3 承諾すること。了承。
憂患:(ゆうかん)うれい。気がかり。心痛。配して心をいためること。
掃攘(そうじょう)はらいのけること。特に江戸末期、異国の侵略をはらいのけること。
貫徹(かんてつ)物事をやりとおすこと
忠節(ちゅうせつ)主君への忠義をかたく守ろうとする気持ち。
感悦(かんえつ)非常に感動してうれしく思うこと。
疎:うと(39%)、まば(26%)、まばら(16%)、おろそ(7%)、そ(3%)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 【八月十八日の政変】
1863年・文久3年8月18日午前4時頃、会津・淀・薩摩の藩兵が禁裏の六門を封鎖し、配置が完了した。
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孝明天皇 宸翰(こうめいてんのう しんかん)とは、1863年(文久3年)に、八月十八日の政変を行った
礼に、会津藩主松平容保に送られた宸翰である
『宸翰』 文久三年十月九日
堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪 下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段
仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也
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福井藩の挙藩上洛計画 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T4/T4-6-01-01-03-05.htm
『福井県文書館』 月替え展示2011.9-10 文久三年(1863年)のあつい夏
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/m-exhbt/20110910AM/20110910-2.html
福井藩の挙藩上洛計画とは?
福井藩の挙藩上洛計画は未発の事件であり、その詳細は十分に解明されているわけではありませんが、『続再夢紀事』「御用日記」などの資料をつきあわせると、その概要は次のようになります。
計画が鮮明になってきたのは文久3年(1863)5月のことでした。朝廷から攘夷決行を迫られた幕府が外国と談判を開始すれば、場合によっては外国船が大坂湾に侵入して、朝廷との直接交渉を要求するような事態も想定されました。こうした状況を打開するために、農兵を含む 4000 の兵を率いて、前藩主春嶽と藩主茂昭 以下藩士一同が再び帰国しない覚悟で上京し、次の2点を朝廷・幕府に建言しようというものでした。
(1) 将軍上洛中の好機をとらえて、各国公使を京都に呼び寄せ、朝廷・幕府の要人が列席して談判
を開き、万国至当の条理を決定する。
(2) 近年幕府の失政が多いのは幕吏に人材がいないからで、今後は朝廷が裁断の権を掌握し、賢明
の藩主に国政参与を命じ、役人も広く諸藩から登用する (小楠書簡『続再夢紀事』)。
横井 小楠(よこい しょうなん)が主導したこの計画は、数日の大議論をへて5月26日にはいったん決定
されました。そして28日には挙藩上洛の心得が達せられ、翌29日には、翌月11日に予定された藩主
茂昭の江戸参勤出発もとり止めとなったことが触れられました。
しかし、5月30日京都から帰った中根靱負(ゆきえ(雪江)が「両公の上京、未(いま)だその機にあらず」と主張し、6月4日の評議では小楠も再度京都に人を送り、時機を確かめるという譲歩案を出して、牧野
主殿介(大番組1組引率)・青山小三郎・村田氏寿らがそれぞれ京都へ派遣されました。
その後6月7日に中根は、将軍不在の京都へ上るよりも、江戸参勤の義務を果たすべきとして小楠支持派と激論を戦わせ、ついに藩論分裂の責任をとって蟄居のうえ、隠居を命ぜられました(14日)。中根を排除した小楠支持派は、17日には領内に御用金5 万両の賦課を命じ、18日には茂昭 の持病を理由に幕府に参勤延期の届を提出しましたが、前後して幕府から参勤出府を督促する達書が届き、藩論は
動揺します。
さらに7月5日には、熊本藩・鹿児島藩へ協力要請のために家老 岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎
(由利公正)らが出発しました。入れ違いで7月6日福井へ戻った村田氏寿(うじひさ)は、朝廷内には、近衛忠煕(ただひろ)ら穏健派によって、広く大名に意見をもとめて親征の可否を決するべきを建議する動きがあるので 「急々上京は適当ではない」と復命しました。
さらに18日には参勤延期の真の理由を述べた嘆願書を携(たずさ)えた毛受鹿之助((めんじゅ しかのすけ)が江戸にむけて出発しますが、同日にもたらされた「京便」によって嘆願書の提出は見合わせられることになり、毛受は今庄からよび戻されて、計画の中止は決定的となりました。
藩内では、この後も徹夜の議論があり、なお上洛を主張した家老本多飛騨らが7月23日に罷免され、
最も強硬論を主張した長谷部甚平と、不在ながらそれと同列とみなされた三岡八郎らもその後
蟄居を命ぜられました。
(文久三年)8月中旬には小楠も福井を去り、茂昭は参勤のため江戸に出立しました。
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『コトバンク』 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 文久三年八月十八日の政変
1862年(文久2)以後長州藩および激派浪士からなる勢力は少壮 (若くて元気一杯なこと) 公家 (くげ)と結んで攘夷(じょうい)実行を幕府に迫り、翌年8月大和行幸(やまとぎょうこう)、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画した。しかし在京諸藩主に反対多く、会津(あいづ)・薩摩(さつま)両藩間で尊攘派排撃の密議がなされ、中川宮(青蓮院宮尊融法親王(しょうれんいんのみやそんゆうほうしんのう)。のちの久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう))、前関白近衛忠煕(このえただひろ)、右大臣二条斉敬(にじょうなりゆき)、京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)、所司代稲葉正邦(いなばまさくに)らは8月18日未明、会・薩両藩兵の警備する宮廷内において大和行幸の延期を決定。
同時に長州藩の堺(さかい)町御門警衛の任を解き、三条実美(さんじょうさねとみ)ら二一卿(きょう)の参朝を禁止し、幕府信任・王政復古反対の意志を堅持する孝明(こうめい)天皇の承認を得た。このため
三条らは長州藩兵、真木和泉(まきいずみ)ら激派浪士とともに長州に走り(七卿落(しちきょうおち)、
この前後政局の中心となった京都はしばらくの間幕府側ないし公武合体派の握るところとなった。
[山口宗之]