「申しわけありません!」


2004年4月、 テレビ朝日『報道ステーション』の初回放送に臨んだメインキャスター、古舘伊知郎さんの第一声が、この謝罪(?)の言葉だった。


正直、耳を疑ったし、落胆も感じた。


 それまでテレ朝の看板番組『ニュースステーション』のMCを務めていた久米宏さんは、「態度が横柄すぎる」など様々な批判を浴びつつも、ニッポン1の人気キャスターにまで上り詰めている。その後続番組のMCを担当するというのだから、大変に勇気のいる決断を迫られたろうし、掛かるプレッシャーも半端なものではなかったと想像できる。


とはいえ、いきなり謝罪から入るのはNGだろう。それが率直な感想。

周知のとおり、古舘さんはテレ朝『ワールドプロレスリング』が世に送り出した超人気アナウンサーである。ちょうど、私の業界入りとはすれ違いという感じで、『ワープロ』を勇退した格好だから、時期が被っていたのも半年程度。軽く挨拶を交わしたぐらいの記憶しかない。

 

ひとつだけ印象深い出来事がある。

フリーとなり芸能活動も活発に行なっていた古舘さんがレコーディングをするということで、都内スタジオへ取材に出向いたときのこと。すでに収録を終えていた古舘さんは、集まったカメラマンに向かって、絶叫調のポーズをとったり、拳を握ってレコーディング用マイクに吠えてみたりと、自ら数パターンの絵を作ってくれた。 


 当時の私は『週刊ファイト』の新米記者で、カメラマンも兼任。かといって試合撮影ではないから、いわゆるコンパクトカメラを持参していた。各紙(誌)のカメラマンたちが「パシャ、パシャ」っと小気味よいシャッター音を響かせる中、私だけが「ガシャ、ジィー」と昔のコンパクトカメラ特有の拍子抜けするような音を出していた。古舘さんがパッと私のほうを見やる。


 「おっ、さすが『週刊ファイト』! シャッター音までひと味違いますねえ」


周囲は爆笑に包まれた。サービス精神旺盛。こうやって笑いを誘うことで取材陣へ気配りをするのも古舘さんらしさだし、名前は出てこなくても、私が『週刊ファイト』の記者であることだけは覚えてくれていたのだ。


話が横道にそれたが、冒頭に記した謝罪の真意はそのあとに続く言葉で明らかとなる。


「私はスポーツ、バラエティ番組をやってきたのでニュースキャスターとは言えません。これからニュースキャスターになりたいと思います」


 こんな内容だったと記憶している。それでも違和感は消えなかった。大切な初回放送、しかも第一声で「申しわけない」はないだろう。それならハッタリのほうがまだマシだと思ったし、尊大とも見られがちな態度で番組を進行していた久米キャスターとは、あまりにも差がありすぎる。

 

古舘伊知郎という人物がプロレスというジャンルから世間へと巣立ち、社会的にメジャーとされる舞台へと成り上がっていく。これは私からしても誇らしいサクセスストーリーだし、だからこそ弱気に聞こえる一言が残念で仕方なかった。


しかし、ほどなくして私なりに古舘さんの心境を理解できるようになってきた。そのきっかけが、キャスター就任から半年後の11月、スタジオゲストに石原慎太郎・東京都知事を迎えての政治討論。古舘さんは、弁舌・毒舌で知られる石原知事を向こうに回し一歩も引こうとしなかった。この瞬間を待っていたかのように、勝負を仕掛けたのだ。


この討論が実質、ニュースキャスター・古舘伊知郎の誕生を世に知らしめたように思う。やはり、あの

 ”謝罪劇”は熟考した末に行き着いた結論であったのだろう。久米さんの正反対をいくこと。背伸びすることのない、等身大の自分をまず晒したうえで、自身の成長過程を視聴者にジャッジしていただこうという決断、選択であったような気がする。


いまとなっては古舘さんと久米さんを比較する人はいなくなった。報道ステーション=古舘伊知郎であり、テレビ朝日のニュースの顔は古舘さんなのである。


まあ、また私の悪い癖から始まってしまった。前置きだけで本筋以上の文面を連ねてしまうのが私流である(苦笑)。つまり、このブログをスタートするにあたり、趣旨はまったく違っていても、まず謝罪……

いやいや”敗北宣言”から始めたい。これはもう、ブログを始めようと決めたときから自分の中で出来上がっていたことなのだ。


    「どうもすいません!」


 これが第一声である。過去、業界関係者、ファンの方たちなどから、「なぜブログをやらないんですか?」と聞かれるたびに、私は一貫してこう答えてきた。


「書くことを生業(なりわい)としている者が、タダで文章を提供するのはおかしい。それではプロではないし、俺には理解できない」


自分の中ではそれがごく当たり前の感覚だったし、曲げようのないポリシーでもあった。芸能人、スポーツ選手、プロレスラー、格闘家、また一般の人たち……彼らがブログをやっていることには何ら抵抗を感じない。ただ、少なくともライターを職業とする人間が原稿料の発生しない文章を書くというのは絶対におかしい。


 それじゃ、レスラーが毎回ノーギャラで試合をするようなものだろう!


 そんなふうに感じていたのだ。振り返ってみると、2005年11月末に『週刊ゴング』(日本スポーツ出版社)を退社してフリーとなった自分は恵まれていたと思う。テレビ媒体の仕事のオファーも多くいただいたし、一時期、『週刊ファイト』(休刊)や携帯サイトのレギュラーコラムを、週に4本もっていた。1週間に4本のコラムを書くというのはシンドイ作業でもあるが、オファーをもらえるのはありがたい話。たとえ、コラム1本の原稿料が5万円であろうと、1万円以下であろうと、自分の中で優劣はつけない。書く以上はどれも等しく本気だった。


だが、未曾有の出版不況とともに、携帯サイトも次々と消えていった。過去に私が寄稿していたサイトも4つ消滅しており、唯一、当時から生き残っているのは『kamipro move』だけ。こちらに関しては、媒体名が変わったり、場所がネットに移ったり、また携帯サイトに戻ったりしながら、じつに6年半以上も連載が続いている。それはそれで、「けっこうな長寿連載だなあ」と我ながら感心もしている。


ただし、もの書き、ライターを名乗っていながら、実際はほとんどテレビ媒体ばかりで活動しているのが自分の現状だ。1年にほぼ1~2冊ペースで出版してきた単行本に関しては、またまったく趣旨の違う仕事となる。今の業界を表現するより、過去を掘り起こす作業のほうがメインとなってくるからだ。


  まあ、このままでいいだろう。

  いや、このままではいけないのではないか。


ここ最近になって相反する二つの考えが頭に浮かんでくるようになった。前者は気楽にいこうかであって、後者は少し自分を追い込んでみようかである。いずれにしろ、とうにもうお金の問題ではなくなってきた。頑固に凝り固まった自分の頭をほぐさなければいけないし、時代と現実を直視しなければいけない。


そこでまた、話が横道にそれる。私がここ数年でもっとも強く影響を受け、目からウロコと感じたフレーズの話。これが2つある。いずれも、かつて超一流だったアスリートのセリフであり、テレビのドキュメンタリー番組を観て胸を打たれた言葉。


そのひとつが、1972年に開催された札幌オリンピックの70m級(ノーマルヒル)純ジャンプで金メダリストに輝いた笠谷幸生さんの言葉。たしかテレ朝系の番組で、放送されたのは99年頃だったと記憶している。私が『週刊ゴング』の編集長に就任したのが99年1月だから、余計に印象深いのだ。


72年当時といえば、私は小学校4年生。天才ジャンパーと称された笠谷さんは、私たち道産子にとって、プロ野球のON砲(王貞治、長嶋茂雄)、プロレスのBI砲(G馬場、A猪木)と並ぶほどのヒーローであり、大スターだった。


日本で開催された初の冬季五輪。笠谷さんは周囲の期待どおり、70m級ジャンプで金メダルを獲得。さらに、銀=金野昭次、銅=青地清二と日本勢が表彰台を独占し、彼らは”日の丸飛行隊”と呼ばれた。

ところが、続く90m級ジャンプ(ラージヒル)で、笠谷さんは惨敗を喫する。1本目は2位につけた。


だが、2本目に入って大倉山の天候が荒れ始める。優勝候補が次々と脱落していく中、笠谷さんの出番が来た。普通のジャンプで充分だった。ごく平均点のジャンプをすれば、金メダルは笠谷さんのもとに転がりこんでくる。だが、横からの突風が芸術品といわれるほど美しい飛行フォームを大きく乱した。その結果、あり得ない失敗ジャンプで、笠谷さんは総合7位に沈んだ。


ただ、番組で当時を振り返ってみたとき、戦う前から心身のバランスを崩していたことが明らかとなる。連日、練習の取材に押し掛ける多数の報道陣。練習後には毎回、会見の場が用意された。周囲は金メダル獲得の期待感を無責任に煽りたてていく。温厚な人柄で知られる笠谷さんの表情が日を追うごとに険しくなっていく。


 「俺はいったい誰のために飛ぶのか!?」


今まで抱いたこともない疑問が頭の中で渦巻いた。


 「70mは勝って当たり前、90mを制してこそ真の金メダリスト」

 

最初からそう思ってはいたものの、周囲の異常な熱狂ぶりが心をかき乱した。当時を振り返りつつ、笠谷さんは自分のスキー人生についてこう語っている。


「私にとってスキー、ジャンプは遊びだし、趣味なんです。もの心がついた頃からスキーを履いて遊んでいた。学校から帰ってスキー板を持って家を出て、暗くなるまで遊んでいた。初めて兄貴に連れられて小さなジャンプ台を飛んだとき、こんな楽しいものがあるのかって。私にとって、スキーは大好きな遊びであって趣味だから絶対にさぼれない。練習でも辛いと思ったことなんて一度もないんです。仕事だったら、いくらでもさぼれるじゃないですか? でも、遊びはさぼれない!」


強烈なセリフだった。仕事はさぼれるが、遊びはさぼれない。当時の自分にとって、これほどピッタリとくるフレーズはなかった。毎週毎週、ひたすら『週刊ゴング』を作り続ける。毎週、締め切りのプレッシャーに追われる。その繰り返し。自分の生活が締め切りを意識した曜日感覚だけで動いていく。


当時から、雑誌の編集長寿命は、それが週刊誌であれ月刊誌であれ、3年が限度と言われていた。そういった中で、通算5年9ヵ月という長期にわたり編集長を務められたのも、笠谷さんの影響が大きい。私にとってプロレスは、少年時代からの趣味であり遊びだからさぼれない。これを仕事と割り切っていたら多分、続かなかったろう。遊びだから楽しんでいるし、趣味だからこそ誰にも負けたくないし、イチバンになりたいと思っていた。


ふたつ目は、1年ほど前にこれもテレビのドキュメンタリー番組の中で聞いた言葉。日本柔道の歴史、五輪メダリストたちの証言、そのライバルたちにも焦点を当てた番組だった。


もちろん、あの小川直也も登場している。金メダル獲得が日本柔道界の至上命令とされていた時代に、重量級の頂点にいた小川は不運だった。1992年のバルセロナ五輪(95㎏超級)決勝戦で敗れ屈辱の銀メダル。試合後の会見場に引きつった表情で現れた小川は、「どうもすんませんでした!」と頭を下げた。銀メダルを獲って謝罪なのだから、何をかいわんや。本当に、とんでもない時代のど真ん中に小川は置かれていたのだ。

 

この番組の中でもっとも心に響いてきたのが、山下泰裕さんの言葉。全日本柔道選手権9連覇、公式戦203連勝、外国人選手に無敗、1984年のロサンゼルス五輪(無差別級)金メダリストと、まさに史上最強の柔道家と称されるに相応しい戦績を残した山下さんは、国民栄誉賞も授与された。現在は、NPO法人・柔道教育ソリダリティーの理事長として、柔道を通じた国際交流に取り組んでいる。


これでもかと映し出される最強柔道家による1本勝ちのVTR。見事な内股でふたまわりも大きな外国人柔道家を畳に投げつけていく。ところが、インタビューとなると、山下さんはあまり多くを語ろうとしなかった。その理由は最後になって明かされた。


「私にとって過去はどうでもいい。過去は過去の記録でしかないんですよ。そんなねえ、昔、俺は金メダルがどうだったとか、何連覇しただとか、過去の栄光を誇らしげに語るなんて、なんか気持ち悪いじゃないですか? 大切なのは今の自分の人生であって、今なにをしているのか、この先どうしていきたいのか……だから私は前しか見ていないんです」


これもしびれるようなセリフだった。人は誰でも過去に思いを馳せる。あの頃はよかった、あのときの自分はこんなにも凄かった。そう考えるようになったとき、人は衰えて老いていくのかもしれない。 山下さんは鮮やかなまでに、自分の栄光の歴史に自分で一線をひいていた。

時間は止まってなどくれない。時代は流れていく。特に現代では、もの凄いスピードで時が刻まれてゆき、昨日の出来事でさえ過去の話として忘れ去られてしまいそうだ。


やはり、このままでいいなんてことは、なに一つとしてない。私には、お金に代えられない最高の趣味と遊びがある。それがプロレス。だから、いつまでも卒業できないし、卒業する気もないし、ずっと留年したままなのかもしれない。ただし、この留年生は、「遊び好きではまだ誰にも負けないだろうなあ」と少しばかりの自信を持っている。だから今も変わらず、遊び場に行くと心がときめくのだ。
  
 「どうもすいません!」


 GKこと金沢克彦、49歳と7ヵ月。今この瞬間から古くさく凝り固まっていたポリシーとやらをポイっと捨てさせてもらいます。

  
 〔附記〕


 当ブログのスタートにあたり、多くの方たちから協力、後押しを受けました。

テレビ朝日『ワールドプロレスリング』スタッフのみなさん、同コンテンツビジネスセンターのみなさん、

新日本プロレスのTさん、サイバーエージェントのNさん。ありがとうございます!


そして何よりも、私のコーチとしてマネージャーのごとく背中を押し続けてくれたH女史に感謝。

私と同世代のHさんは、まるで母親のように(スイマセン!)、𠮟咤激励してくれました。


「ブログをやってみたら?じゃなくて、金沢さんがまだブログをやっていないこと自体がおかしい!」

 

これがまず1発目で、ブログのデザインに関して「顔写真は恥ずかしいから載せたくないんですよね」

と、私が抵抗の意思を垣間見せると、「テレビで堂々と顔を出している人が写真は嫌だなんて……

そんなの卑怯じゃないですか!?」と一喝。


まるでお地蔵さんのように動こうとしない私の背中を押すどころか、毎回思いっきり尻を蹴飛ばしてくれた感じのHさん。もう感謝の一言です!